その場でしか「観られない劇」とその場にいたら「観られない劇」が同時に存在したらあとはもう、想像しかない
気にはなっていたけれどこれまで足を運んだことがなかった、覚王山の揚輝荘。(名古屋)
園内にある建物のひとつ、聴松閣(松を聴く!)を舞台とした演劇を見てきました。
1階(喫茶室)か地下(旧舞踏場)の、どちらで観るかを選ぶと、物語が終わるまでその場を動けません。
てことは、
その場でしか「観られない劇」があって、
同時に、
その場にいたら「観られない劇」も存在する。
そんな、ふたつの「られない」にくすぐられながら、欠けた物語の隙間を空想のパズルで埋めていく。
それだって、観客の数だけ物語が生まれているだろうし、ふたつの劇を並べてみないと正しい形になっているかどうかもわからない。
そもそもこの劇の構造自体、そういった正しさを求めていないんでしょうね。
世の中には、直接自分自身で見たり聞いたり体験できないことのほうが、圧倒的に多い。手の届かない圧倒的多数はあきらめて、目の前にあるソレに集中するしかない。
でも、そんななかでも、ほんとに合ってる?と、ついついネタバレやレビューに「正しさ」を求めにいってしまうこともあって困ります。
揚輝荘でのこの劇、未だ自分が「観られなかった劇」で何が起きていたかを知りません。
目の前に放り投げられた展開やセリフの断片を拾い集めて冬休みの宿題にするしかありません。
しかしまたこの、
揚輝荘という空間は、さらなる難問を突きつけてくる。
かつてこの舞踏場ではどんな音楽が流れ、誰が踊ったのか。
地下の片隅の暗闇にほのかに見えるあのトンネルはなんのために掘られたのか。
階ごとに様式が異なる装飾が迎えいれたのはなんだったのか。
劇を離れ、大正昭和へと想像という厄介は手招きしてきます。
劇が終わり、そのあと、1階と地下に分かれ鑑賞した観客同士が集い、それぞれの空想の隙間を披露しあうってこともあったらおもしろかったかも、と思ってしまった。けれど、
うん、でも、それは、答え探しになってしまうから、野暮ってやつかな。