本に愛される人になりたい(67) リチャード・バック著「かもめのジョナサン(完成版)」
感覚でとらえ感覚で跳ね返すような小説などに出逢うことがあります。オノ・ヨーコ「グレープフルーツ・ジュース」やアンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」、そしてリチャード・バック「かもめのジョナサン」…等々。
「かもめのジョナサン」は、1974年に五木寛之さんが翻訳し大ベストセラーになり、中学生だった私も本屋さんで買って、いっきに読みました。
そのころは、古今東西の小説を貪るように読んでいて、脳みそが混濁するような日々を過ごしていたのですが、「かもめのジョナサン」は、そのどれでもない感覚を私に教えてくれた作品でした。
それ以降、「かもめのジョナサン」についての感想や評論・批評的な文章に出逢いましたが、なかなか「これだ!」というものには出会うことなく時は過ぎ、やがて「かもめのジョナサン」について語る人はいなくなっていました。
一カ月前に世田谷から片瀬海岸に引越し、膨大な書物の片づけをしていると、ポロリと「かもめのジョナサン(完成版)」が現れ、段ボール開封作業を忘れ、久しぶりにジョナサン・リビングストン・シーガルの生きる姿を追っていました。
この完成版は、2013年春、最終章Part Fourが追加されたもので、著者のリチャード・バックの序文では、1970年に最初に発行されたとき、ジョナサン・リビングストン・シーガルの物語の月末はこの最終章ではないと考え、この章を割愛しPart Threeで終わらせたと述懐しています。新たに追加されたこの完成版の詳細については、ぜひお読みください。
今回、久しぶりに本書を手に取り読み終えたとき、この小説は「感覚でとらえ感覚で跳ね返すような小説」なのだと、ようやく納得したわけです。
もやもやしたまま、あれやこれやと言葉を費やしても、この小説の読後に残る味わいが何なのか、的確な言葉が見つからないでいた十代をはるか後方にそのまま放置しすっかり忘れていたのですが、スッと腹に落ちる言葉を見つけることができ、私と「かもめのジョナサン」との関係はひとまずはっきりした気がしています。
もちろん、読者それぞれが、読んだタイミングやその時の心のありようで読後感は異なるはずですから、誰かの批評や評論だけを間に受けただけでは、つまらぬ読書になるでしょうし、私と「かもめのジョナサン」との関係が他の読者とは異なるものだろうとは思っています。
私の場合、「感覚でとらえ感覚で跳ね返す」ような小説に次はいつ出逢えるのか、楽しみな読書ライフを「かもめのジョナサン」が教えてくれたことは、確かです。中嶋雷太
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