本に愛される人になりたい(99)「本を読まなくなったってさ…」
先夜のこと、「本を読まなくなったってさ…」と知人が飲み屋でポツリとこぼしました。私は「そうだろうなぁ…」と言葉を返すだけで、その話はレモンサワーの小さく歪んだ泡のようにすぐに消え去りました。心のなかでは、もったいないなぁと思ったのですが、冷たい言い方だけれど、損をする者はそのまま損をする人生を送り、スマートフォンから現れる光源の明滅に取り込まれながら老いるしかありません。ジョージ・オーエルの『1984』じゃあるまいし、誰も図書館や本屋さんに行ってはいけないと制限してはいないし、そして誰もあらゆるジャンルの本を読んではいけないと制限していないから、損をするのを選択した人生であればそれはそれで仕方のないことだと思っています。学歴を求めるよりも、先ずは多様な知識を自分の血肉化すれば良いのになぁとも思っていますが、この状態は損ではなく得だとする人が大勢でしょうから、私はやはり天邪鬼かもしれません。
小学生になったころから「考えることとは何だろう?」と漠然と気になり始めていました。担任の先生だったか親だったか、それともNHKの教育テレビ(現・Eテレ)だったか、子どものころから考えることをした方が良いというような話が耳に入ってきたからだと思うのですが、そもそも考えることとはどういうことなのかを、はっきりと分かりやすく誰も教えてくれずにいたようです。確かに、大人になっても、考えることとはいったいどういうことなのかを分かりやすく説明できる人は多くはないはずですから、仕方がないと言えば仕方のないことです。
中高大大学院と様々なジャンルの本や資料を読みながら、物事をとらえる知識や感覚を得てきたわけですが、とは言え考えることについてのシンプルな回答はなかなか見えず、シンプルとは逆方向に向かい、敢えて言葉を多用したり、表面上は論理だっているだけだったり、複雑多岐に言葉を乱用し混沌としていたかと思います。言語学や言語哲学などにも一時期興味を持ち、あれやこれやの本を読み漁っていましたが、とはいえシンプルな回答にはなかなか行きつきませんでした。
小説を読んでいると、主人公たちはとても雄弁にそして精緻にその心理を語り、それはそれで物語の進行上必要なことなのかもしれませんが、私以外の人たちはこんなにも細かく悩み苦しみ、こんなにも細かく感情を揺るがしているのかと考えると、私はとっても望洋とした腑抜けに見えてきました。
社会人となったある日の休日のこと、いつもどおりボンヤリと過ごしていたのですが、突然ハタと気づきました。頭のなかで言葉を思い浮かべながら何事かを考えるときは、まったくもって饒舌でも論理的でもなく、とても文節的で、「◯◯だから⬜︎⬜︎なんだよなぁー」的な言葉だけで、それを繋げ繋げて何事かの結論をとりあえず見つけ出していました。それは、ある理論に基づくといったような大ごとではなくて、あくまで漠然とした文節的な繋がりでしかありませんでした。
小説や映画や演劇などのエンタテインメントを楽しんだときも、「はぁー、面白かった」で、理路整然とした饒舌な言葉で何が面白かったのかを滔々と語れるようなものではなく、その「面白かった」もとっても文節的な感じの面白かったです。
こうして、ほぼ確信的に考えることとは何かへのシンプルな回答を私なりに得たわけですが、その文節的な考えに影響を与えてくれたものは記憶の為の知識ではなくて、その都度の私の疑問や興味にピタリと寄り添ってくれた本や資料やその他様々なエンタテインメントがもたらしてくれたものでした。ではそれ以外のものはどうなのかと考えると、その多くは試験勉強の為に記憶した情報だったり、色々な本や資料やその他様々なエンタテインメントを知っていることを自慢する為の情報だったようです。つまり表層的なものだったと思います。
たまにですが、「私は色々な本を知っているのだ!」という知識自慢な方、特に我が京都にいっぱいいらっしゃいますが、大切なことはその人物にとってどのように影響を与えられたのかを、ゆっくりじっくり語ることであり、知識量はまったく関係のないことです。そんな貧しい人が学者や知識人としなかったのは、桑原武夫さんが京都大学の人文科学研究所にいらっしゃった時までかなぁと思います。今や、理性が貧困になりました。
本を読むとき、自分の頭のなかで自分のために読み語るように言葉を出し、そのシーンごとのイメージを映像化しているような気がします。作家が書いた文字の順番通りに自分で読み語りイメージの映像化を楽しむ行為のようです。それは、「スマートフォンから現れる光源の明滅」に一喜一憂して時間を消費したり、サクッと知りたいことを知るだけの素早い行為とは正反対の行為です。
やがて、何年も何十年も時が経過するなかで、読書やその他エンタテインメントなどから得た知識や感覚などがじんわりと発酵し、自分なりの考え方の肥やしとなり、そして文節的であったとしても、自分なりの考え方の土台を作っているのではないかと願うばかりです。
ゆっくりじっくり物事を知り咀嚼し、ゆっくりじっくり物事を考え、そして、ゆっくりじっくり発話する…。それはとってもアナログなことなのかもしれませんが、それこそ人間が生物たる所以です。
振り返れば、2007年にiPhoneの初代機が発売されてからスマートフォン文化は広がり、とっても便利な時代となりましたが、多くの識者がデジタルvsアナログというような対抗軸でこの時代を語り始めました。私たちが人間という生物である限り、基本はアナログであり、手段としてのデジタル・メディアがあるのだと思っています。
そして、いまは過渡期で、スマートフォンの画面の明滅に取り込まれ、ゆっくりとした生命活動を喪失しているのではないかと思います。
今夜もどこかの居酒屋で「本を読まなくなったってさ…」と語る大人たちがいるでしょうが、返す刀で、本を書く者、編集する者、出版する者、そして本を販売する者が、この時代層をなんとなく漠然と理解しつつも、漫然と昨日までのことを今日も明日もやってはいないかと自問自答することも必要なのかもしれません。いつまでも読者の責任に帰すのもどうかと。
最後となりますが…言霊を殺すジジイやババアたちがのさばり私たちの言葉を殺したなぁと、つくづく思いながらも…明日も湘南・片瀬海岸で、波に乗ってきまーす。中嶋雷太