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ビーチ・カントリー・マン・ダイアリー(10):「漁港のある日常」

 私が住む湘南・片瀬海岸の近くには、東から腰越漁港、湘南港、そして片瀬漁港が徒歩圏内にあります。大雨ではない限り毎日浜辺を散歩するのですが、片瀬東浜や西浜や鵠沼海岸でサーファーの姿を楽しんだあとには必ず漁港に立ち寄り、停泊している漁船をぼんやりと眺め楽しみます。
 中学生のころから作ってきた心の奥底にある漁港のイメージに惹かれ続けているので、ちゃぽりちゃぽりと静かな波に揺れる漁船や引き上げられたフジツボだらけの魚網、ウミウの姿などを眺めているとなんとも言えず幸せになりひと深呼吸します。
 この漁港のイメージは、私が好きなヘミングウェイの「老人と海」を土台にして私が勝手に作り上げたものに違いありません。この世に生まれ社会人になるまで、ずっと京都盆地で生きていたので、サザンオールスターズが湘南の情景を歌っていても、それはとても遠い世界のことで、実感としては、それはまるで火星か金星での出来事のようでした。ところが、「老人と海」やテレビで長らく放送していた「クストーの海底世界」シリーズなどで、私の海のイメージが膨らみ、時にバイクや車の旅で出会った漁港の風景も重なってゆき、やがて妄想のなかの我が漁港が出来上がりました。函館や伊豆や長崎や、中でも舟屋のある丹後の伊根は数カ月滞在したいとさえ思うほど私を引きつけました。海外では、バルセロナ・オリンピック前のバルセロナの港が秀逸でした。港近くに古いレストランが立ち並び、その日揚がった魚を調理してくれるのですが、その夜はスズキしかないと言われ、どうなることやらと待っていると、蒸し焼きのようなスズキの美味いこと。漁港ならではの磯の香りも手伝って、感激したのを覚えています。
 テレビのニュースや旅番組などで紹介される漁港では、漁から帰港した漁船から大量の魚が水揚げされ、漁師や漁港関係者たちが威勢よく立ち働いていますが、私が日々眼にする漁港はいたって静かなもので閑散としています。近ごろ、相模湾の漁獲高が激減しているのもあるでしょうが、漁港の日常風景とはそもそもとても鄙びたものだと思われ、日本各地でこれまで訪ねた漁港も、午後だったこともあるでしょうが、のんびりとした時間が流れていました。その鄙びた日常風景にこの身を置き、全感覚を解き放つと、なんとも言えぬ幸せな感情が芽生えてきます。
 漁港という漁師が働く場所を呑気に「好きだ」というのも申し訳ないのですが、ただただその風景だけが好きなわけではありません。高校生のころバイクが欲しくて、夏休みと冬休みには中央卸売市場の仲卸店でアルバイトにせっせと励んでいました。朝の5時前から11時ごろまで。アルバイト料も喫茶店などの時給の2倍はあり、頑張って早起きしていました。その頃は、単純にアルバイト料欲しさで働いていたのですが、人の無意識とは面白いもので、知らず知らずのうちに魚ごとの流通を学び、どこの漁港で水揚げされたのか、さらに魚の捌き方や調理の仕方まで学ばせてもらいました。今となっては、海から漁港、漁港から卸売市場、卸売市場から台所、そして台所から私の胃までの長い旅路を知ることになったわけですね。
 片瀬漁港を散歩していると停泊する漁船がゆらりゆらりと波に揺れ、ウミウがブイの上にとまって休んでいます。風が吹くと潮の香りが立ち、私を包みこんでくれます。漁港のある日常は私の生活の宝物なのです。中嶋雷太

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