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暴言戯言、直言に怒言(5)「8月の憂鬱」

 毎年8月になると、少々憂鬱になります。いくつか理由がありますが、そのうちの一つが「戦争」という言葉の捉え方です。
 おそらくそれを「戦時中」だと誰もが思っているようで、その期間は、歴史年表の西暦で区切られた戦争の始まりと終わりとなり、私たちは何年から何年までが◯◯戦争だと捉えたがるようです。ただ、そこには落とし穴があり、戦争に至る何十年もの道を見る視座を省いています。戦争に至る道が無ければ戦争はなかったという当たり前なことがポッカリと抜け落ちてしまっています。
 例えば、つい先日まで与野党問わず政治家やマスメディアやSNS等で叫ばれていた「言論の自由」(気づけば「言論の自由」という言葉は、あまり深められずに、どこかに雲散霧消したようです)という視点で日本の近代史をたどれば、古くは出版条例(1869年)から、讒謗律、新聞紙条例、集会条例、保安条例、出版法、治安警察法、新聞紙法、治安維持法……という流れが見えてきます。まるで、現代の近隣某大国たちと同じように、政治家や国民の言論の自由を奪ってきた近代史を、日本も辿ってきたのが分かります。政治家の演説の自由が源泉としてある言論の自由(ぜひ、ジョン・ミルトン著「言論・出版の自由(アレオパジティカ)」をお読み下さい)が徐々に狭められていった明治近代化から戦後に至る歴史のなかで、現在の近隣某大国たちと同じような専制主義・軍国主義を、何の疑問ももたずに受け入れたり、率先してそれに組んでいった人が数多くいたのは事実です。戦争の悲惨さを語ることは大切だと思いますが、その一方で戦争に至る道を傍観したり受け入れたりした結果がその戦争の悲惨さを作り出したのだと、考えをもう少し広げ深めてみてはどうかと思います。もちろん戦後の普通選挙は当時無かったにせよ、そうした戦争に至る道を、私たちがいま辿っていないかどうか、加担していないかどうかを考えることはとても大切です。
 私は、これからの時代を生きる子供や孫世代が精一杯自由闊達に生きられる世の中になればと心から願っています。その為には、近隣某大国たちのような自由や民主主義に逆行する動きに気をつけつつも、彼らを批判する言葉を返す刀として、自分が暮らす国が同じ轍を歩んでいないかを、注視したいと考えています。
 で、おそらく、愛国的という方々は私のことを嫌いになりかけていると思うのですが、私は、自分の子供や孫世代が、近隣某大国のような国で生きてもらいたくないだけです。
 戦争の苦労話に「可哀想だ」とするだけの8月になると、私は少々憂鬱になります。中嶋雷太

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