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私の「美」(12)「タイロン・クリスタルのショット・グラス」
北アイルランドの内陸、オマー地方にあるタイロン県(郡?)にあるタイロン・クリスタル社で製作されているのが、このタイロン・クリスタルのショット・グラスです。歴史を遡るとおよそ250年前にはこの地で始まっていた現代ガラス製品の流れを汲んでいるそうです。
私がこのショット・グラスに出会ったのは1980年代後半のころです。英国政府機関のリサーチャーとして北アイルランドに何度か出張する機会があり、そのときに初めて出会いました。1980年代は、まだ北アイルランド紛争が継続しており、IRAと英国政府が対立していた時代です。北アイルランドに限っていえば、カソリック信仰者の失業率は30%を超えていました。ベルファストからタイロンに向かう車道にはスピードを制限するバンプが時々あり、軽機銃構えた英国兵の姿もありました。
さて、何かの取材の同行で訪れたタイロン・クリスタル社の工房はひっそりとした佇まいでした。その輝かしい歴史を変に誇ることのない、愚直とも表現できそうな工房でした。そして、お土産としてもらったのが、写真と同じタイロン・クリスタルのショット・グラスでした。
北アイルランドといえば、アイリッシュ・ウィスキー、シングルモルトのブッシュミルズです!と、このウィスキーが大好きな私は言い切りたくなります。北アイルランド北東部の港湾都市ベルファストから数十キロ北西に車を走らせると、このウィスキーの蒸留所があります。1980年代のまだ若かりし私は、その試飲コーナーでブッシュミルを試飲し、衝撃を受けました。それまでも、いろいろなウィスキーを飲んではいましたが、「こんなに美味いウィスキーがあったんだ!」と叫びそうになったのを覚えています。
私の定宿はベルファストにあるヨーロッパ・ホテルという名のホテルで、有刺鉄線で囲まれたホテルの玄関から通りに出ると、古いたたずまいのパブで賑わっていました。金曜日の夜だったからなのかもそれませんが、その夜はヒアリングがほぼとれないアイリッシュ訛りの英語の世界に身を委ねました。
やがて、英国政府機関を辞め、テレビ局で番組プロデューサーの仕事を始めると、ブッシュミルズもタイロン・クリスタルも忘れてしまい、時間は十数年経ってしまいました。
2003年にL.A.在住を終え東京に戻ると、「美味いウィスキーが!」と、心騒ぐ私がいました。L.A.では自家用車での移動があたりまえで、夜の会食といってもワインを少し楽しむだけでした。ましてや、徒歩で行ける小粋なバーなどはなく、バーに飢えていたのもあるかと思います。
帰国後、ある知人の番組プロデューサーに紹介してもらったのが南青山にあるバーでした。久しぶりに、ゆっくりできる(自家用車で運転しなくとも良い)バー・タイムで、ふと思い出したのが、タイロン・クリスタルのショット・グラスで楽しむシングルモルトのブッシュミルズでした。まさか、あのショット・グラスがあるわけないと、試しに話をしたところ……ありました。以来、このバーに通い始めたのは言うまでもありません。
無骨なカットを施したショット・グラスは、手のひらにすっぽり入る丸み、そしてズシリとした重み。人それぞれ、好きなお酒はあるでしょうが、私は、タイロン・クリスタルのショット・グラスで愉しむブッシュミルズが大好きです。中嶋雷太