見出し画像

本に愛される人になりたい(105) 多田富雄「免疫の意味論」

 自己と自己ではないもの(「非自己」)を区別する個体のアイデンティティとは何だろうか。自己を守るために非自己を排除しようとする免疫のあり様を著者である多田富雄さんは問います。けれど、自己と非自己の境界は曖昧で、とてもファジーな個体の生命があります。免疫学からの深い考察が12章に分けて語られるのが本書です。(月刊誌『現代思想』で12回分けて連載されたもの)

 本書(1993年4月30日発行)を初めて読んだのは、多田富雄さんが第20回(1993年度)大佛次郎賞を受賞されたという報道を受けた翌年のことだったと記憶しています。1990年代のこの時期に免疫学についての分かりやすい本はほとんどなくて、講談社のブルーバックスにあったかどうか。さらに、免疫学だけでなく、そこから生命とは何かや人間とは何かを俯瞰的に問う方は、多田富雄さん以外にいなかったようです。現在でも、この生命科学という俯瞰的な視点を持った研究者がどれだけいるのかは怪しいものです。インフルエンザや癌やアレルギーなどについては広く情報があり、季節により流行し始めるとワイワイガヤガヤとマスメディアで騒ぎますが、対処療法の話はあるものの、なかには胡散臭いものも多々ありますが、その基本的な知見である免疫についてはなかなか一般的ではありません。新型コロナ禍での人々のあたふたした姿がよく物語っていました。「納豆が効く」という情報が流れると、スーパーの納豆棚がすぐに空になるという様相をこの目で見て、苦笑した覚えもあります。何十年も日ごろ食べていれば、ある程度の免疫力はつくでしょうが、いまさら食べてもそんなに即効力などあるわけがありません。
 私が免疫(学)に興味を持ったのは、癌細胞やウィルス関連の本を読んでいて、「やはり、免疫学の視点を深めたい」と思ったのが契機でした。そして、大佛次郎賞を獲られた本書を早速購入し読みました。初読から、たまに再読していたのですが、二十数年後の2020年春先から新型コロナ禍が日本をも襲い、改めて読み直し、昨年(2024年)の年末からまた読み直したところです。
 「しかし、こうして寄生虫や癌の免疫の問題を扱うことによって、私たちは免疫のもうひとつの側面に近づいている。人間はどこまで『自己』なのか。『自己』と『非自己』の境界は明確なのか。たとえば、癌ウィルスを含めてすでに人間に住みついてしまったウイルスやきせいは、身体的には『自己』に属することになる。たとえ、本当の『非自己』が入り込んできても、免疫系が認識できる『非自己』というのは限られている。…その曖昧な『自己』を保証するものは何だろうか。」と著者は問い、最終章の第12章へと突入します。
 ここではネタバレも、内容の要約も目的とはしておらず、私にとっての本書とは何であるかを綴らせて頂いています。本書を通して、一つには免疫の暴走とは何だろうとずっと考えていたのですが、徐々に多田富雄さんの免疫学からの自己-非自己論へと、頁をめくるにつけ新しい考え方地平を学んでいるのに気づき始めました。免疫学の本、つまり免疫とは何かという免疫の意味論を問い続ける本でありながら、人間とは何かを問う人間論の本でもあるわけです。本書に続けて、正月明けには続編となる『生命の意味論』を読み始めた私です。中嶋雷太

いいなと思ったら応援しよう!