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プロダクション・ノオト(2)

前回は実家のあった太秦という映画の町の話をした。今回は太平洋を渡りロサンゼルス。2000年の春、前職(WOWOW)でロサンゼルス事務所の初代所長として赴任した。事務所はセンチュリー・シティという、元は二十世紀フォックスのスタジオがあったところで、「クレオパトラ」の予算がかさみスタジオ敷地を売却して街が生まれたと誰かが言っていた。真偽の程は分からないが。最初の自宅は、センチュリー・シティを南北に通るアベニュー・オブ・ザ・スター沿いのコンドミニアムで、通りの反対側には「ダイ・ハード」でナカトミ・ビルとされたフォックス社の社屋があり、夕暮れ時に車で帰宅するときは「ダイ・ハード」の映画の世界に入った気分になっていた。確か「猿の惑星」の何作目かもこの街が舞台だったはずだ。堅固な塀で囲まれた何百世帯もが入るコンドミニアムの出入り口にはガードが常駐しており、仲良くなると笑みを返してくれ、嘘でも余裕のある「笑み」がこの街では大切だと最初に教えてくれた。コンドミニアムには、ある有名な俳優の老いた親が住んでいて、すれ違うと「ハイ!」と挨拶を交わしたが、突っ込んだ会話をするまでではなかった。あれこれ詮索したくもなく、静かな老後の邪魔にもなるかと、一方的に思っていたのもある。事務所立ち上げの為に隔離されたコンドミニアムに住み始めたものの、やはり楽しい街に住みたいと翌年にウェスト・ハリウッドに引っ越した。因みに、我が人生、十数回引っ越しをしているのだ。毎朝、隣の古い屋敷の庭からベランダにやってくるハチドリが可愛くて、朝カフェはベランダで過ごすのが日課だった。メルローズ・プレイスとサンタモニカ・アベニューに挟まれた我が家の界隈は、良い感じの小さめのレストランやバー、ライブハウスなどがあり、毎夜住人たちが遊び歩いていた。ウェスト・ハリウッドはゲイの街でもあり、住人の多くが、人を思いやる優しさに満ちていた。そして脚本家や俳優を目指したり、挫折したりする住人が数多くいた。……これはまるで太秦ではないかと、不思議な縁を感じる私だった。センチュリー・シティからウェスト・ハリウッドに引っ越したのは、たまたま良い物件があったからだが、その土地に長年刻まれた文化のようなものに惹かれたのだと思う。仕事はハリウッド・スタジオ各社との打ち合わせや、アカデミー協会やグラミー協会とのイベント等の話……たまに、ニューヨークやヨーロッパに飛び、音楽やスポーツなどのあれこれ交渉ごとなど。かなり多忙を極めていたが、今となっては充実していたと思う。けれど、仕事としてのエンタテインメントと太い一線を引いて、ウェスト・ハリウッドの日常があったのが今では夢のようだ。アカデミー協会の知り合いのスタッフと通りですれ違うと、彼はモッズ系のファッションで、プライベートを思い切り楽しんでいるようだった。映画や演劇や音楽を地熱として育む土地は、国や自治体が一方的に作ろうとしても無駄だろう。その土地に、映画、演劇や音楽に関わる者の喜怒哀楽がスコットランドの泥炭のように積み重なり、時間をかけてゆっくり腐敗し地熱となるのを待つしかない。特に、良いスコッチ・ウィスキーに出会うには、やはり怒りや悲しみが必要だと思っている。怒りや悲しみ、孤独や不安は、「悪いこと」ではない。その苦味を噛み締めて一歩前に足を踏み出したとき、次の地平線がすっと立ち上がる。中嶋雷太 https://kaytosea.studio.site/

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