本に愛される人になりたい(83) 五木寛之「スペインの墓標」
ある日突然、読みたくなる小説があります。先夜、ぐだぐだと眠りにつけない、夢うつつに、五木寛之さんの「スペインの墓標」の一節が鮮明に蘇ってきました。
「不意にオートバイの音が響いた。黒い長靴をはき、黒い皮の服を着た男たちが、自動小銃を背負って二列になって走ってきた。ジプシーたちは算を乱して逃げまどった。銃声がひびき、女が両手を高くあげて倒れた。その顔はパキータの顔だった。」
五木寛之さんが37歳の時、1969年に発行されたのがこの「スペインの墓標」です。そして、その7年後、発行されたのが「戒厳令の夜」です。
私の読書歴を遡ると、18歳で「戒厳令の夜」を読んでからの数年後、この「スペインの墓標」を読んだと記憶しています。
スペインと言えば、私が好きなアーネスト・ヘミングウェイからのイメージ、赤色の大地に血がこびりつくような世界観があったのですが、それは遠い世界の物語でした。ところが、五木寛之さんのスペインを舞台にした作品群で、その世界観がより一層身近になりました。
1992年のバルセロナ・オリンピックを準備していた1980年代末のこと、私はマドリードとバルセロナを旅していました。言論の自由がようやく解禁されたころだったと思いますが、マドリードのプリンシペ・ピオの丘での夕暮れを全身で感じていたとき、鼻腔の奥で、ぷんとあの世界観、つまり赤色の大地にこびりつた血の匂いが迫ってきたのを覚えています。ある意味、追体験だったのかもしれまんが、この世界観がずっと私の感覚に残っています。
この「スペインの墓標」の途切れ途切れの言葉の紡ぎ方は、「戒厳令の夜」とは異なる、五木寛之さんのヒリヒリとした何ものかも、読者に伝えてくれます。
饒舌なのが大嫌いな私にとり、アーネスト・ヘミングウェイや五木寛之さんたちの、ヒリヒリとした何ものかは、今も大好きな言語表現なのです。中嶋雷太