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ビーチ・カントリー・マン・ダイアリー(39)「京都の住職とサーフィン話で盛り上がる」

 社会人になるまでは生まれてずっと京都の太秦に住み、社会人になってからは東京の吉祥寺、荻窪、国立市などを転々としつつ長年世田谷区の下北沢近くでの生活を営み、昨年(2023年)10月から片瀬海岸に移り住んで、今やサーフィン三昧の日々を送っています。小学生の頃にテレビで見た映画『老人と海』やジャック・クストーの海洋番組に触発され、いつの日かビーチ・カントリーに住みたいと思っていたので、念願が叶ったわけですね。徒歩1分で海辺がり、すぐにサーフィンが楽しめる生活は楽しいもので、一年余りが経過して、肌も焼け、よほど寒くはない限りビーサンを履いて過ごしています。このビーチ・カントリーの良さは何といっても広いビーチと広い海と広い空です。東から太陽が昇り、海面を照らし続けて西へと沈むという、何でもない日々は心地良いもので、サーフボードの上に乗り、ぷかぷかと波間に浮きながら水平線を眺めているだけで、幸福感たっぷりになります。新江ノ島水族館前あたりで波待ちをしていると、東に江ノ島があり、遠くに大島が見え、視線を西へ動かすと、伊豆半島、そして富士山が視界に入ってきます。その手前には烏帽子岩の姿もあります。
 こうした日々が日常となってきた私なのですが、年に一度、墓参の為に京都に戻ります。応仁の乱以前からの代々の京都の町衆だったこともあり、また私が長男筋直系で祭祀権を委ねられているので、年一回の墓参は欠かせません。
 今回も、京都に戻り、お墓参りを済ませ、お寺の住職と軽く談笑を交わせて去ろうかと思っていたのですが…。因みに、京都ではお寺の住職のことを「オッさん」と呼びます。おそらく、和尚さんからきた呼び方なのでしょう。そのオッさんが「雷太さん。サーフィンやっているんですか?」と突然訊ねられたので、「え?」という感じでした。オッさん曰く、SNSなどのAI技術のせいか、昨夜突然「友だちではありませんか?」と私が現れたといいます。そして、私の投稿を見て、サーフィンにハマっている姿を初めて知ったようです。いつも寡黙なオッさんなのですが、いつもと異なる生き生きとした瞳で、「実は…」と彼のサーフィン話が始まりました。
 オッさんは中学生の頃からのサーファーで、始めた理由は「モテたい」からだったそうです。この理由がとても好きで、私はオッさんの話に自然と飲み込まれて行きました。京都からなら日本海か三重県の方に行くとか…等々。やがて、持って帰ってもらいたいサーフボードがあって…という話になり、本堂前で待っていると、綺麗に使い込んだ8ft.や6ft.などのサーフボードが出てくるわ出てくるわで。それぞれのサーフボードに込められたオッさんの蘊蓄話も面白くて、気づけば譲ってもらうことになりました。京都の、大極殿跡にある、古い浄土宗のお寺の本堂前に並べられたサーフボードを眺める私は、なんだか楽しくなっていました。その情景をパチリと写真に収めておけば良かったのにと、後になって悔しがる私でした。
 京都で学生時代を過ごしていたとき、井伏鱒二の小説『山椒魚』で描かれている山椒魚のような、どこか鬱屈した私がいました。京都という盆地に生まれ育ち、しかも千年以上もの歴史が積み重ねられており、代々の京都の町衆だった我が家の日常生活の隅々にまでその歴史が染みついていて、息苦しさでむせ返りそうな日々でした。そして、我が家のお墓がある浄土宗のお寺の、代々のオッさんは、そうした息苦しい象徴の一つになっていたようです。日常生活に染みついた仏教的な物事の捉え方といえば良いのでしょうか。何もかもが歴史に絡め取られているような感じでした。
 社会人となり、京都から逃げるように東京で仕事を始めたわけですが、父母の介護などで京都に戻るたびに、息苦しさはさらに募るばかりで、色彩で言えば、ダークな町としか思えませんでした。
 ところが、ビーチ・カントリーの生活に慣れてくると、不思議なことに京都の良さが見えてきました。京都の町中の路地(京都の言葉では「ろーじ」と発話します)ひとつとっても、そこには千年以上前からの文化が静寂を纏いながら染みついています。各町内にはお地蔵さんが祀られていたり、家々の軒下には祇園祭の鉾のチマキが飾られていたり…。海と盆地の対比軸が大きければ大きいほど、その差が生み出すものは明確になってくるものです。る
 ようやく京都というものの良さが少しずつ見えてきた私にとって、お寺の本堂に並べられたサーフボードの光景、そしていつも寡黙だったオッさんが生き生きと語るサーフィン話は、湘南の海と京都盆地を繋げる手立てのひとつになったようです。何事も先入観に囚われてはいけませんね。来春、車で京都に戻り、オッさんのサーフボードを何枚か譲り受けようかと、画策中の私です。中嶋雷太

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