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悲しきガストロノームの夢想(66)「お重の食」

 今回は、うな重のお話ではなく、「お重」の魅力についてのお話です。
 人生初の「お重」は、もちろんお正月のお節料理のお重ですが、それを除いて感激したのを覚えている最初のお重は、父母が親戚の結婚式から帰宅して持ち帰ってきたお重だったと思います。
 どこかの割烹料理屋さんが精魂込めて調理し、お重という限られたスペースに色彩豊かにお料理を配置した色とりどりのおかず、そしてお赤飯。今でも、脳裏にくっきりと焼きついています。我が家系は、というか昔からの京都の商家は、お付き合いのある割烹料理屋さんが決まっていて、法事や祝い事などがあれば、料理人が家にやって来て、下拵えした料理に台所で手を加え、供してくれるというのが一般的だったようで、割烹料理屋さんはとても身近な存在でした。
 この割烹料理の世界観が、お重という小さな空間に敷き詰められたのが、父母が親戚の結婚式からのお土産で持ち帰ったお重だったと、10歳ごろの私は薄々ながら「承知して」いました。
 我が家は基本的には外食はしない家庭だったので、お重として供される食事にはなかなかありつけず、私が社会人になり独立するまでは、その食のスタイルは冠婚葬祭を除きとても遠い存在でした。
 社会人となり、一時期大阪に住むことになり、土日の休みはふらふらと食の街「大阪」を恐る恐るふらついていたのですが、確か難波あたりだったか、お腹が空いた私は、ふらりと天ぷら屋さんの暖簾をくぐりました。天ぷら屋さんといっても、敷居の高いお店ではなく、食通の大阪人が普段着で暖簾をくぐるような、庶民的な天ぷら屋さんでした。
 そこで注文したのが、天ぷら重でした。大阪の食の世界が好きなのは、運ばれてくるのが早いところで、手を抜いているのではなく、「美味しいもんは、早う(はよう)出さなあかん」といった、お客さん目線があることです。その時も、注文するやかなり早く天ぷら重が運ばれてきました。ちなみに、昨今、多種多様な食のお店が賑わっていますが、お客さん目線を欠いたお店が多いように思われます。色々考えて自分なりのお店ですというコンセプトで頑張っておられるのは良いのですが、時に上から目線を感じることが多々ありますね。そんなに自慢されても困るわけですし、自慢度が高いお店は大抵やり過ぎ感満載で、あまり美味しいとは思えぬことが多々あります。
 さて、その大阪の天ぷら屋さん。運ばれてきたお重の蓋は浮いていて、蓋の端から太い海老の尻尾が二つニョッキリとはみ出ていました。
 そして、蓋を開ける瞬間が訪れます。心をニタニタさせ蓋を開けると、二尾の海老を筆頭に、これでもかというほどの天ぷらが現れました。衣はサクサク、ご飯も美味しく炊けている。机の上に置かれたタレを好きなようにかけ、七味をさらに振りかけると、私は意識を集中させ、美味い美味いと、天ぷら重の世界に入り込んでゆきました。あの感激は今でも忘れられず、お重の食事をとる時の基準になりました。
 ちなみに、外食でのカレーやうどんや蕎麦や…それぞれに食の基準みたいなものが人にはあるのではないかと思っています。その基準はただただ提供された食だけでなく、そのお店の雰囲気や中と外の従業員の振る舞い方やお客さんへの接し方なども含めた、ものなのだと思っています。食とは総合格闘技ですね。
 鰻重もまた、蓋を開ける瞬間のドキドキ感は堪りません。浜松駅近くにある地元の鰻屋チェーンで、特上を頼んだときは、蓋を開けてニンマリしました。鰻が二尾。ご飯の上に一尾分、そしてご飯に挟まれてさらに一尾分。お店の雰囲気は飲食チェーンとあまり変わり映えなくお値段もそれほど高くはなかったのですが、従業員の方がテキパキとしていて、良いお店でした。メニューを見て特上を注文したときにはおおよそのイメージがありましたが、運ばれてきたお重の蓋を開ける高揚感はなんとも言えず気持ちよく、さらに蓋をとった後のお重の景色は想像を超えたものでした。これだから、お重で出される食はたまりませんね。中嶋雷太

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