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悲しきガストロノームの夢想(74)「夢にまで見る駅弁たち」

 文字通り、夢に見る駅弁というのがあり、先夜は蟹の身たっぷりの駅弁の夢を見ました。この蟹の身たっぷりの駅弁は、毎年、墓参の為に京都へ帰る新幹線内で堪能したはずで、新幹線に乗る前に東京駅の大丸地下街のお惣菜コーナーで購入したはずです。
 味覚の記憶というのは面白いもので、このお弁当の蓋を開けた時の蟹の香りや、蟹の身の食感、そして蟹の身の下に敷かれた酢飯の味わいなどを次々に思い出していました。
 数年に一度ほど、この、文字通りの駅弁の夢を見るのですが、脳の機能のどこかに仕組まれているようです。夢を見ることは、脳の情報整理だという話を聴いたことがありますから、私の脳は定期的に、美味しかった駅弁の情報をこと細かに記憶の押し入れから引っ張り出し、目が覚めてもその駅弁にまつわる情報を再認識させているようです。
 これまでも、函館だったかのイカ飯、京都駅で購入したちらし寿司、名古屋駅のみそかつえびふりゃー…等々、私の脳は「これ、覚えているよね!感激したよね!もう一度再確認してくれるかな?再確認してくれたら、記憶の押し入れに折りたたんでしまっておくから。絶対、消去なんかしないから」と、私に夢を見させてくれています。
 この話は、これまで誰にもしたことがないので、人間なら全員が同じような夢を見ているのか、それとも私が特別なのかは分かりません。ただ、もし、同じような方がいらっしゃるなら、きっと食いしん坊に違いないと思っています。
 単に、どこどこの駅弁が美味いという情報交換ならよくあることでしょうが、夢にまで見るのはどうなのか。このあたりを、これから知り合いたちに訊ねてみようと考えています。ただ、怖いのは、後付けで得た情報を追加し、その駅弁を美化しているかもしれないので、そこは注意を怠ってはいけません。人間というのはズルい側面もあって、その時には絶対思ってもいなかったのに、その後得た情報を後付けで追加して記憶の上塗りをしてしまいがちです。哲学者の鶴見俊輔さんの言葉で言えば、「回想の次元」ですね。
 定期的に夢に見る駅弁たちは、数十個はあるかと思いますが、こうして覚醒していると、最近の二つ、三つぐらいしか思い出せないでいます。それ以前のは、見たはずなのに、どんな駅弁の夢だったか、それ自体を思い出せません。おそらく、記憶の奥の押し入れにキチンと仕舞われたのでしょうね。しかし、今すぐにでも美味しい駅弁が食べたいものです。中嶋雷太

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