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別れの日に綴る、届かない言葉

今日は私の46回目の誕生日。
そして36年前、昭和が終わった日でもある。
そんなことをぼんやりと考えたのは、直近で亡くなった親族の葬儀が、今日行われたから。

葬儀までの日々は、出席する親族の範囲から日程まで、様々な悶着が続いた。
結局、私は参列せず、両親の送り迎えだけで終わることになった。
まだ、あの人がもういないという実感が湧かない。
葬儀に出席しなかったことも、その一因かもしれない。

あの人は、私とは想像もできないほど正反対の人生を歩んできた。
自分の思い描く人生を追求し、あの人の実家の家族も結婚後にできた家族も、それを支え続けてきた。
それは子供の頃からずっとの話で、あの人の両親は決して見捨てることなく、常に助け続けてきた。

今になって気づくのは、私はその関係性をとても羨ましく思っていたということ。
理屈では分かっている。
私にも、きっと私の両親は同じように手を差し伸べてくれるはずだと。
でも心の奥底では
「それでも見放されるかもしれない。だから、きちんと生きていかなければ」
という不安が常にあった。
そういう私になった原因は両親のせいではない。
でも、親族によって作られた環境が、そんな私を形作ってしまったのも事実。

私が生きづらさを感じているのと同じように、自由に生きていたあの人も、この世界の生きづらさを感じていただろう。
周りのサポートがあっても、自分の道を貫いても、決して平坦な道のりではなかったはずだ。
もしかすると、あの人から見た私の人生は、羨ましく映っていたのかもしれない。
世間に順応し、特に波風立てることなく過ごしてきた私の姿は、別の形の幸せに見えていたのかもしれない。

生きているうちに、こんな話ができていたら良かった。
でも、もうそれは叶わない。

まだ整理できない、受け入れられない気持ちを、今日は書き留めておく必要がある。
そんな気持ちになったから、今ここに記している。

まとまらない思考のままに、今心から思うこと。
願わくば、彼の残した家族たちが、これからの人生でより良い道を見つけられますように。

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