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ユートピアの躾と血潮の進化――理想と現実の果てなき相克

躾というユートピアニズムと、進化論が象徴するリアリズムとの対峙は、いかにも人間存在の懊悩そのものを映し出しているかのように見える。躾は上意下達の規範に拠り、社会を統制する装置として機能する。それはある種の“完成された理想”として、秩序維持を至上命題とするがゆえに、個々の自然発生的な進化をねじ伏せる圧力ともなる。その反面、進化とは血の通ったリアリズムに他ならず、あたかも混沌の底から隆起する生き物のごとく、権力や制度の束縛を受けながらも躍動を止めない。けれども、皮肉なことに躾が強まれば強まるほど、この“野性的なる進化”は均質化へと押し込められ、窒息の淵に追いやられるのだ。

さらに法律という形で具体化された躾は、絶対的な権力と罰則を帯びることで、その効力を顕在化させる。現場ではしばしばブラック企業と呼ばれるリアリズムがのたうち回るが、ここに法律というユートピアを持ち込めば、少なくとも文字の上では“必ず勝つ”ことができる。まるで戦争における武力のように、法律の裏には国家の威光が輝き、その裁きの力をもって個人を守護するからだ。だが、法律がもたらす勝利の代償は、周囲との関係悪化という、現実的かつ生々しい痛手である。有給を振りかざす社員は、自らの休息の権利を確保しても、同僚からの敬意や温情を奪いかねない。リアリズムに身を置く者と、ユートピアに安住する者との間には、埋め難い溝が刻まれてゆく。

しかし、この摩擦こそが新たなる進化を生み出す原動力なのかもしれない。ユートピアへの信仰を梃子(てこ)として躾を行使する側がいれば、同じくリアリズムに根差した反発心が噴き出す者もいる。歴史を遡れば、中世の神官と呼ばれた存在こそ現代の官僚に通じ、神の名によって社会を律したのが、法の名によって人々を制御するいまの姿だ。そして、いずれの時代もそれら権力は、人間本来の生存欲求や自由への希求を無視できず、やがて制度の狭間から人々の創造的な抵抗が隆盛する。法律の緩い異国から移民を受け入れ、人口減少の現実を乗り越えようとする現代の姿は、躾で抑圧したはずの進化の芽を、別の回路で補填する試みとも言えよう。

かくして、人間の進化の衝動は、どれほど頭脳を使って制度化しようと、押さえ込むことはできない。だが、その狂おしいエネルギーを抑止する“理想=ユートピア”を人は必要とし、同時に“現実=リアリズム”がその理想を噛み砕き、血の通った活力を注ぎ込む。結局のところ、我々は双方の価値観を天秤にかけるトレードオフのなかで生きるしかない。知性としての官僚性と、肉体としての現場性を併せ持つ者にとっては、その二重性こそが武器となろう。ある者は現実の荒波のなかで身体を持て余し、ある者は制度の高みにあっても心の荒涼を抱える。両者の矛盾を生き抜く者が、進化をしぶとく紡ぎ出し、ユートピアとリアリズムの境界で新たな価値を創造するのではないか。

三島由紀夫が己が肉体への憧憬と、官僚的とも呼べる知性をせめぎ合わせたように、我々もまた内在する力のアンビヴァレンツを抱えている。そのせめぎ合いが人間を高みにも地獄にも導く。制度の表札を掲げる国家の安寧というユートピアと、戦争やブラック企業などが現す血生臭いリアリズム――その両極を往還する宿命こそが、人間という存在の宿痾(しゅくあ)でもあり、力強い魅力でもあるのだ。

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