馬狼 照英。絶望の才能
1. 「絶望の才能」という概念
ゲーテや太宰治が持っていた「絶望の才能」と、三島にはそれが欠落していた(あるいは不十分だった)という前提が据えられています。そして、その才能の欠如ゆえに、三島は文学の内部で主人公を殺すことができなかった――言い換えれば、作品の虚構世界で「完全なる破滅」を描けなかったという見立てです。これを端的に整理すると、
1. ゲーテ
• 『若きウェルテルの悩み』でウェルテルを死へ至らしめることにより、著者自身が自己を“殺し”、そして“復活”する。
• 「絶望」を創作上で完全燃焼させ、そこから再生した。
2. 太宰治
• 『人間失格』などで、主人公を破滅へと導きながらも、自らは「決定的な再起」を望まない。
• 「絶望の才能」は十分にあるが、“その先”へ行こうとしない姿勢。
3. 三島由紀夫
• 『仮面の告白』や『金閣寺』、そして『豊饒の海』においてすら、主人公に完全な死を与えきれない(あるいは転生などで誤魔化す)。
• 虚構の内部で「絶望」を徹底できないため、現実において自らの身体をもって“死”を実行した。
• つまり、絶望を“作中”ではなく“現実”において成功させたという論。
これをまとめたうえで、「絶望」というのは文筆家にとっての一種の“昇華”または“自己再生”の契機であると捉えられます。ゲーテや太宰はそれぞれのやり方で創作内部に“絶望”を描き切ったが、三島は最後までその“描ききり”に失敗し、その分、現実行為(割腹自殺)に自らの意志を託した、というわけです。
2. 三島文学における「死」と「美」の構図
三島は自作の中で「死」を常に強く意識し、「死」と「美」を結びつける哲学を展開していたことで知られています。特に『金閣寺』では、美への嫉妬と、それを破壊しようとする主人公(モデルは実際に金閣に放火した林養賢)を描いていますが、その結末において主人公を“死”へと至らしめてはいません。そこには次のような要素が絡み合います。
• 美は破壊されることで完成されるという観念
三島は、美が儚さや破滅によって永遠性を獲得するという独自の感性を持っていました。しかし作品内では、主人公が完全に自滅するよりも「金閣を焼き、そこから自らがどう変容するか」というプロセスを描くことに重きを置いています。
• 自己投影の捩れ
三島は主人公に自身を投影しつつも、同時に「美を破壊する者」としての主人公を突き放して観察しているようにも見えます。しかし最後の一線、すなわち“絶望の完成”として主人公を死に至らしめる決定打を下せない。ここが“絶望の才能”の欠如と呼ばれる所以なのかもしれません。
3. 太宰治への嫉妬と“救済”の問題
三島が太宰に対して抱いていた感情を、直接の言動のみから断定するのは難しい部分があります。ただ、「太宰治のようなタイプの作家」に向けて、強烈な対抗意識や敬意を混ぜ合わせた複雑な感情を持っていたのは確かだとされます。
• 太宰の“破滅型”文学
自身を作品内に投影しながら、救済を求めるくせに徹底的な救いを拒絶する――太宰の文学には“救われることへの羞恥心”に似たものがあり、その矛盾が多くの読者を惹きつけました。
• 三島の“救済”への執着
一方で三島は、救済を肯定しつつも、その救済を芸術の彼岸、すなわち“美の完成”に求めました。ところが、作品の内的世界でそれを全うできず、最後は“現実の行動”において実現を図る――割腹自殺という行為を「救済の完成」と見る解釈もあります。
「三島には絶望の才能が無い」という指摘は、まさに三島自身が抱えた“救済”の欲望に根差しているとも言えましょう。太宰は破滅へ行き着いても救済を否定するため、作品そのものが“徹底した絶望”となります。しかし三島は、美の救済を最後まで捨てきれなかった。その未練が、作品内で主人公を殺しきれないという構図に繋がっていると解釈できるのです。
4. 「文学の無力化」と「現実の死」
文学の世界で絶望を完遂できなかった三島が、最終的に自衛隊駐屯地で割腹自殺を敢行する――この行為には、いくつかの解釈が考えられます。
1. 文学は自分を救えなかった
いくら美や死を描いても、現実の“肉体の行為”に勝る真実性を得られなかった。芸術は己の生を超克する手段たりえなかった。
2. 現実の死による美の完成
三島は「行動による自己完結」をもって、文学で成し遂げられなかった“絶望の演出”を達成した――あるいは美を完成させた。
こうした見立ては「文学の無力化」、あるいは「芸術の一線超え」というテーマに繋がります。ゲーテはウェルテルを殺すことで自己を救い、太宰は作中で破滅を描くことで自らの絶望を先取りしながらも、実際にも自死しました。では三島はどうかといえば、作品世界ではなく「現実の死」によってしか絶望を全うできなかった。そこに、ある種の焦燥感と、文学への呪詛にも似た思いが滲んでいるとも言えます。
5. 「文学は誰のためのものか」
最後に、「文学とは何のためにあるのか」という問いが再び提起されます。「文学というのは誰のためでもなく、自分のために書くものだ」という立場は、まさに三島が生涯問い続けたテーマにほかなりません。三島は文学を通じて自己の本質を追究し、そこにおける絶望と救済の可能性を探った。しかし、作品の中では救済を描くことに傾き、絶望を徹底する才能を最後まで持ち得なかった。その埋め合わせを、現実世界での“行動”によって果たそうとしたのかもしれません。
• 芸術家にとっての“実存”
芸術家はしばしば、自らの作品に自分自身を生贄として捧げます。ゲーテはウェルテルを介して自分を殺し、太宰は作品と実生活の双方で自己を際限なく破滅へ誘った。一方、三島は作品で“死”を遂行できず、現実の割腹によってしか自己を断ち切れなかった。ここに、“文学の限界”と“行動の優位性”が鋭く突きつけられます。
結論
「三島は絶望の才能がなく、最後は現実において死という形で絶望を完成させるしかなかった」という見解は、三島文学を読み解くうえで非常に興味深い視点を提供してくれます。ゲーテがウェルテルを殺すことで生き延び、太宰が作品の中に徹底した破滅を描きながらも自身の破滅にも向かったのに対し、三島は「作品では殺しきれない主人公=自ら」を“リアル”において殺すしかなかったのかもしれません。
文学の世界は、しばしば虚構の救済や絶望を試みる場ですが、最後の最後でそれを現実へと飛躍させるのは作家自身の生き方や思想の構造に依存します。三島が抱え込んだ絶望とは、もしかすると「作品では完遂できない美の完成=死」であり、だからこそ現実行動による破局を選ばざるを得なかった――そう考えると、「絶望の才能の欠如」は、三島の創作姿勢と最期の行動を結びつける一つのキーワードと言えるでしょう。