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「実体経済と虚構の水脈――国債発行が紡ぐインフレ制御の真実」
日本の財政赤字なるものは、その深い淵において数多の思惑を吸い込みつつ、あたかも巨大な暗渠のごとく我々の視界から隠されてきた。しかしながら、コロナ以前にインフレが顕在化せずに済んだ根本の理由は、企業の内部留保と金融市場への資金逃避という二重の関門が実体経済への資金流入をせき止めていたからにほかならぬ。企業が蓄えた巨額の内部留保は堅牢なダムと化し、さらに、政府が発行する国債による信用創造の資金が巧みに金融市場へと流れ込むことで、円滑な物価上昇を妨げ、見かけ上の安定を維持してきたのである。
こうした巧妙な仕掛けは、コロナ下での財政出動においても遺憾なく発揮された。国債を発行し、世に溢れるはずの資金を、金融市場という虚構の水路へと逃がすことで、実体経済の過熱を防ぎ、インフレの昂進を見事に抑え込んだのである。岸田文雄氏が号令をかけ、企業の賃上げが声高に叫ばれるようになった背景にも、この仕組みが潜んでいる。――企業があたかも自らの努力で賃上げに踏み切ったかのように見えるが、蓋を開ければ、その源流は国債発行による信用創造の結果にほかならず、いわば「国債が給料を上げた」も同然の構図なのである。
もっとも、この賃上げが一たび実体経済へ流れ込み、実際に物の売買を喚起する場面となれば、当然インフレが顔を出す。今回の物価上昇がコストプッシュによるものではないと指摘されるゆえんは、エネルギー価格の高騰など外的要因の他に、この財政出動による需要押し上げが無視できぬことにある。そこで、日銀は利上げへの慎重な姿勢を貫きつつ、国債発行によって生まれた資金がどこへ向かっているかを丹念にヒアリングする。さらに政府は、利上げや増税という手段をもって「行き過ぎた資金の流入」を回収しようと狙っているわけだ。
では、なぜ日本は諸外国に比して低金利を保ち得るのか――それは、新NISA制度やiDeCoといった仕組みにより、個人や企業の資金を金融市場へ導き、実体経済へ流れ込むのを防いでいるからだ。言い換えれば、膨れ上がった貨幣を巧みに「縛り」、実体経済へ流れ込む道筋を遮っているのである。ここで狙い撃ちされるのは、銀行預金のように「いつでも現金化できる形」で保有している場合であろう。実体経済へ容易に資金が移る「可能性」自体が、政府にとっては牽制すべき対象であり、それゆえに新NISAやiDeCoによって減税・節税の恩典をちらつかせつつ、資金を市場に閉じ込めようとしているのだ。
その結果、利上げや増税は実体経済へ流れ出した過剰な資金を回収するための壮大な掃討作戦となり、企業や個人にとっては「実体経済を潤そうとすれば増税の網にかかる」選択が押し付けられる構図だと言えよう。金利差による円安が一見問題視される中でも、それを「好ましい」と捉える向きがあるのは、輸出企業に利益をもたらすだけでなく、流通資金を海外へと広く分散させることで、国内物価上昇の臨界点を抑える手立てとなるからである。
かように、国債発行による信用創造は本来、工場や事業といった「担保となる事象」が裏付けとなる場合に限って許される性質のものだが、そこを超えて過剰に発行すれば、それは本質的にインフレ圧力を招く。したがって政府としては、財政出動を行いつつも、資金が実体経済へ一気に噴出しないようにする諸策を巡らせる他ないのだ。現に、この数年にわたる賃上げによる物価上昇も、政府が意図的にエネルギーコストプッシュ対策として実体経済へ資金を注ぎ込んだ結果であり、やむを得ぬ帰結と言えよう。
そして我々個人がなすべきこと――それは、溢れ出る資金の誘いに容易に乗せられるのではなく、「必要最低限で足る」とする覚悟をもって行動することに尽きる。企業や個人が内部留保や金融市場への投資へとシフトし、結果として実体経済への資金流入を鈍化させれば、インフレ圧は抑えられる。政府がiDeCoで節税を促し、新NISAで減税を誘うのも、このインフレ抑制の方策にほかならぬ。逆に、実体経済へ過度な資金投入を試みる者は増税などの制裁措置にあう。かくして、我々は資金を動かす手綱を常に握りしめながら、政府の誘導と金融界の思惑の狭間を慎重に渡り歩かねばならない。まさに、国債発行による「虚」と、実体経済という「実」の狭間にある綱渡りが、今の日本経済を巧みに支配しているのである。