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「理想と本能の狭間」
ユートピアニズムという言葉を耳にすると、多くの人は、ある種の美しき幻――日常の煩いを忘れ、宛らエピクロスの園のように甘美な愉悦へ身を浸す夢想――を思い浮かべるかもしれない。しかしながら、その実態は遥かに峻厳である。ユートピアが目指すのは、我々不完全なる人間の獣性を律し、より高次なる完全体への従属を課すという、まさに「躾」の営為なのだ。
動物としての人間は、生物学的本能に従い、欲望のまま動く。その奔放な獣性を制御し、あるべき形に矯正する行為こそ、ユートピアニズムの要諦である。そこには自ずと、一種の宗教的道徳――結婚せよ、善行を積め、誇り高き行いをせよ――という絶対的規範が課されるであろう。言い換えれば、我々が抱く混沌を、完全なる秩序へと昇華する試み、それがユートピアの本質的精神なのである。
しかしリアリズムの側からは、現実の姿を余すところなく曝け出す声が聞こえる。「そもそもオスの本能は種をばら撒くものであり、唯一の女に留まることは容易ではない」といった具合に、事実をもって理想を斥けようとする。リアリズムの眼差しは常に、獣的衝動の真実に据えられているがゆえ、そこには道徳という仮構の存在は希薄だ。むしろ、元来の獣性へ帰れとでも言わんばかりに、自然に埋没することを肯定するのである。
だが、ここで気をつけなければならぬのは、両者の抗争が単なる「理想」対「現実」の図式ではないという点だ。ユートピアニズムが掲げる「完全」の姿は、我々の内なる衝動を否定することではなく、それをいかに高次な秩序へと導き得るかの指針である。人間性という名の獣を馴らし、“理性的なるもの”へと鍛え上げていくという、荘厳なる使命感を背負っていると言ってよい。
一方、リアリズムは現実を剥き出しにするあまり、しばしばその獣性を見過ごすどころか讃美してしまう。欲望を野放図に肯定し、理想のために課される躾を「不自然」と断ずることもあるだろう。しかし、その裏には常に、人間が本来抱える混沌と矛盾とを、丸ごと呑み込もうとする逞しさもある。
このように、ユートピアニズムは「未熟なる我々」を鍛え、理想の秩序へと導こうとする根源的意志であり、リアリズムは「獣としての姿」を真っ向から受け止め、帰るべき場所をそこに見出そうとする態度である。互いの立場が際立つほどに、ヒトという動物の本質がますます鮮明になる。人間がただの獣で終わるのか、それとも理想への意志によって己を昇華させるのか。その交錯こそが、我々が生きるこの世界に絶えず生じるドラマの源泉であり、人間という存在の証明なのである。