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【文スト考察】国際関係論から福地とフョードルの平和論を真剣に考える【120.5話】
こんにちは!
みなさんもう文スト本誌120.5話は読みましたか?
今月号では、フョードルが福沢に向けて独自の平和論を提唱していました。
フョードルの独白内容は難解で、特に「恒久平和のために世界大戦を起こします🎶」のシーンは「は?」と呆気に取られた方も多いのではないでしょうか。
そこで、国際政治にわか&学部レベルの筆者が、稚拙な知識ながら国際関係論の観点から福地とフョードルの平和論を解説&考察したいと思います。
⚠️この記事では、フィクションに現実の政治も絡めてひたすらマジレスしているので、そういうのが苦手な方は見ないでください!
筆者は学生かつ超素人であり、原著も碌に読んでいないため、出てくる知識に学問レベルの正確性はないと思ってください。全部ただの趣味です!
あと無駄に長いので長文でうんざりするタイプの人はブラウザバックをお願いします...。
興味ある人だけ閲覧お願いします><!おkな方はどうぞ!
前提知識①国内政治と国際政治の違い
本題の前に、国際政治のシステムを理解してないと話が進められないので、まずそれについて、国内政治と比較しつつ解説します。
国内政治システム
唐突で申し訳ないですが、中学生の時に習った現代における主権国家の3要素を覚えていますか?
答えは「主権・領域・国民」です!
この主権国家の概念は、遥か昔からあったものではありません。現在の主権国家体制が成立したのは、1648年のウェストファリア条約においてです。
詳細は割愛しますが、条約成立当時は絶対王政で、その後、英仏その他の国で市民革命が起き、現代の近代国家が成立したというわけです。
(本誌3p「近代国家の枠組自体が18世紀に生まれたよちよち歩きのお約束事」というシーンはこれを指している。)
さて、なぜ主権国家の3要素が「主権・領域・国民」なのでしょうか?
ここでは、国際政治と関連が深い「力」の観点から論じていきたいと思います。
主権国家とは、国家の上位に権力が存在しないことを指します。つまり、一定の領域内において、中央集権的な政府が最高権力を持っているということです。(例えば、日本国内においては日本政府が最高権力を持っています。琉球政府や蝦夷政府などは存在しません。)
なぜこのようなことが可能なのか?それは、中央政府が「暴力」を占有しているからです。(←ファッ!?)
言葉が強いし唐突ですが、単純化すればわかります。
日本政府は警察と自衛隊(軍)という「暴力」を占有しています。日本国内においては、法律に違反すれば警察が、武力蜂起して政府を転覆させようと思えば自衛隊が出動するでしょう。
「力」という点において、国民は政府に従属しており、政府が最上位の権力を持っています。(街中で銃を乱射すれば銃刀法違反で捕まる。)
そして、その「力」は一定の範囲内においてのみ行使されます。(日本政府がアメリカ大陸にいるアメリカ人を裁くことはできない。)
明治政府が刀狩令を発令し武具を放棄させたのも、周辺国と協約を結んで国境確定したのも、まさしく「近代国家への生まれ変わり」そのものだったってことですね。
ちなみに、中央政府の「力」の暴走のストッパーとして考えられたのが、ホッブズ・ロック・ルソーの社会契約説です!
力関係において圧倒的に政府>国民だと政府の権力者が暴走して独裁に陥ってしまいますよね。だから国民に主権があることを明示して、憲法によって政府を縛り、民主主義を維持することで国民の人権(≒身の安全)を守ろう🎶という発想が生まれたわけです。民主主義重要!(←これは後の話に関連)
少し話が逸れましたが、国内政治システムは
「主権国家体制においては、中央政府が「力」を占有しており、国家の上位権力は存在していない。」
これだけわかってもらえれば十分です。
(ここまで書いて気づいたけど「国家とは暴力」って25巻95pでわざわざ説明してくれてた。詳しくは福地さんの解説とマックスヴェーバーの著作を読んでね🎶)
国際政治システム
同じく「力」の観点から国際政治を考えてみましょう。
国際社会において、主権国家の上位に権力は存在するでしょうか?
答えは「NO」です。
国連やEUが思い浮かんだ方もいると思いますが、「力」という観点から考えてみて欲しいです。国連やEUは武力で各国を支配しているわけではありません。基本的には政治的・経済的な政策の合意の場です。
国連は国連軍を持っていますが、あくまで非軍事的措置が不十分だと安保理が判断された場合にのみ動く軍で、主権国家(常任理事国5カ国)の決定によっては十分に機能しません。
そして何より、現在進行形で世界中で戦争が起きているのが「主権国家の上位に権力は存在しない」ことを証明しています。仮に「人類軍」のようなものがあれば、ウクライナ戦争も中東戦争も上からの力によって鎮圧されてるはずです。
では、国際政治システムとは何なのか?
それは本質的に「アナーキー(無政府状態)」です。
字義通り、上位権力が存在しないから無政府状態のカオス状態ということです。国家は国際関係の一次的な主体であり、国際社会ではそれらが合理的にそれぞれ利益を追求しています。
この例えはあまり良くないかもしれませんが、政府も法律も何もない世界で生身の人間同士(主体)が共存したり殴り合ったりしてる絵面を想像してもらえればわかりやすいかと思います。
国家が国際関係の主体だから、戦争は国家単位で起きます。本誌の表現を借りて言えば「われら」=主権国家、「かれら」=他の主権国家という感じでしょうか。
国家間の関係は基本的には力関係で決まりますが、実際はもっと複雑な要素が絡み合っており、これに限りません。(小国が全て大国に征服されるわけではないですよね。)
ここまでの話をまとめます。
国内政治=「力」を占有している国家が最高権力者であり、国民が国家に従属している(階層的)
⇅
国際政治=国家の上位権力は存在せず、アナーキーな世界で国家が一次主体となってそれぞれ利益追求を行なっている(水平的)
これだけわかってもらえれば十分です。
余談:「ワンオーダー」のおもしろさ
現実の国際政治がアナーキーであることを前提にすると、作中に出てくる「ワンオーダー」の面白さがわかると思います。
120話時点のワンオーダーは、全人類の武力を統率するという設定です。つまり、国際政治の舞台で「力」においても「国家の上位権力(国連・人類軍)」を作り出すということです。
現実では勿論不可能ですが、もしも国家の上位権力が出来たら...ていうフィクションの中の思考実験だと思うと面白くないですか?面白いと思うの私だけか...。
前提知識②リアリズムとリベラリズム
ワンオーダーについて触れたし、福地さんの平和論を今すぐ論じたいところですが、その前に基本的な国際関係論だけ紹介させて下さい。後の話がわかりやすくなると思うので!
今の国際関係論は大きく分けて2つあります。
「リアリズム」と「リベラリズム」です。
前者は「力(≒軍事力)」を重視する理論、後者は国際法や国際機関等「力以外の要素(≒政治、経済、文化)」を重視する理論です。
以下詳細。
リアリズム
「力」を重視する理論であり、国際政治を国家間の権力闘争とみなす立場を取っています。分析単位は「主権国家」であり、各国の「国益」や国家間の「勢力均衡」を重視します。
つまり、リアリズムは、国家間の力関係を重視し、勢力均衡は国家のパワーバランスを均衡させることでお互い手が出せなくなる=戦争を回避しよう!という考え方です。
歴史に関連づけられるのは、ウィーン体制、第一次世界大戦前の列強の同盟関係&帝国主義、冷戦期の米ソ関係、現在では集団安全保障などでしょうか。
自分の利益を第一に行動している生身の人間は、相手が自分と同じくらいの力なら喧嘩しないっていうのと同じです。(←喧嘩しても引き分けになるだけで何の利益もないから)
これは双方が合理的な判断をできる場合にしか成立しません。相手が捨て身の特攻をしてきたり(太○洋戦争の日本軍)頭がおかしかったり(ヒ○ラー)すると普通に喧嘩になります。←勢力均衡の理論の穴
「リアリズム=力の均衡の重視」と思ってくれれば大丈夫です。
リベラリズム
リアリズムはリベラリズムと対極的な、相互補完関係にある理論だと思ってくだされば大丈夫です。
つまり、「力」の関係以外の、国際法や国際機関、国家・国民の政治文化社会等を重視し、平和を追求する考え方です。
具体的には、「国家が相互に経済依存していれば、その国家間で戦争が起こるリスクは低下する(双方に戦争の利益がないから)」「民主主義国家同士では戦争は起こりにくい(国民にとって戦争のインセンティブがないから)」等の理論があります。
歴史に関連付けられるのは、三十年戦争の反省から生まれた「戦争と平和の法」、第一次世界大戦期のウィルソン主義(国際連盟)、第二次世界大戦後の国際連合・国際法・その他超国家機関による政治経済文化的な交流などでしょうか。
「リベラリズム=「力」の関係以外のものを重視する」考え方で、リアル(力)を排しているので往々にして綺麗事になりやすい、と思ってくれれば大丈夫です。
余談:リアリズムは「戦争に積極的」、リベラリズムは「平和を実現する」のか?
ここまでリアリズムとリベラリズムの2つの考え方を紹介してきました。
一見すると「リアリズム=力の重視=戦争賛成」「リベラリズム=平和の追求=戦争反対」のように見えるかもしれませんし、そう考えた方もいるかもしれません。
しかし、これは違います。リアリズムもリベラリズムも平和を追求しうる考え方であることに変わりはありません。
例えば、冷戦中に米ソ間で核戦争が勃発しなかったのは、核兵器によってある種の勢力均衡(=MAD、相互確証破壊←このネーミングつけた人絶対中二病ですよね)が成立したからです。これはリアリズムの考え方を基にして核戦争が防がれた一つの例と言えます。
朝鮮半島や中東においては悲惨な戦争が起きたわけで、大国間の衝突が無かったからといって平和と言ってはダメなんですけどね。
また、リベラリズム的な考え方が常に平和をもたらすとも限りません。
現在の国際情勢を見てみれば分かる通り、今世界は「綺麗事」(本文の表現で言えば「善と徳」?)が通じない世界に変容してきています。
決してリベラリズムの考え方が悪いとは言いませんが、今世界中で起こっていることは前世代の「綺麗事」の反動であると捉えられなくもないです。←フョードルみたいなこと言い出した
現に国連安保は機能不全に陥っており、世界各地で広がる戦争に何の策も打てていません。
リアリズムとリベラリズムは表と裏、相補関係を成しており、両方平和を追求しうる考え方であるということははっきりと述べておきたいと思います。
お待たせしました!ここまで読んでくれた方ありがとうございます。
ここからは、今まで紹介した前提知識を活かして、福地の平和論とフョードルの平和論をリベラリズム/リアリズムの対比関係に配置し、真剣に考察していこうと思います。
福地の世界平和論-リベラリズム?
福地さんは作中で「全人類の軍を統制できるワンオーダーの権限を福沢に渡し、福沢が人類軍の統帥となり世界平和を実現させる」という主張をしていました。
つまり、世界中の「力」をワンオーダーで結集させ、一人の「徳」ある為政者に統制させよう!という考え方です。「善と徳」のある為政者が世界中の武器を統制することで、戦争を永久的に防ぐことができます。戦争の原因になる全世界の「力」が、平和を求める為政者の手中にあれば当然戦争は起きないよね🎶って考えです。
プラトンの哲人政治の考え方に近いかもしれませんね。
「力」の要素が関係している以上リベラリズムとは言えない気もしますが、「善と徳」を元とした平和追求の思想らしいのでリベラリズム側に置かせてもらいました。
福地さんの論は、戦争を防ぐという観点では一見良いようにも見えますが、二点の重大な欠陥があります。
一つ目は「世界帝国と民主主義は両立し得ない」問題、二つ目は「後継者問題」です。
まず一点目から述べます。
民衆による民主主義は、選挙人と被選挙人が離れれば離れるほど、選挙範囲が広がれば広がるほど、機能させることは難しくなります。
これは、地方自治体選挙〜国会議員選挙〜欧州議会選挙を考えてもらえれば分かると思います。
選挙範囲が少なければ当然住民も少ないわけで、一人一人の意思が選挙結果に反映されやすいです。過疎地域の市議会委員選挙とかを思い浮かべて見て下さい。議員と顔見知りだから投票するとか全然あります。
逆に、選挙範囲が広いと、民衆一人一人の意見を選挙結果や全体の政策に反映することは難しくなります。現在のEUでは、移民政策について各国が、EU地域に住んでる住人一人一人が異なる意見を持っていると思いますが、それら全てをEUとして一つの政策に取り込んでまとめることは不可能です。だから、選挙範囲が広くなるほど、少数派の意見が切り捨てられるなどして、個人個人の意思を尊重することは難しくなります。
これを世界帝国(本誌の表現なら「人類連邦」)の場合で考えてみましょう。
国家を統一すれば、選挙範囲は地球全体ということになり、当然ながら人類連邦を維持するのと民主主義を維持するのは不可能です。(80億人の意思を1つの政策にまとめるなんて不可能)地球上の人々一人一人の意思を尊重したらたちまち人類連邦は崩壊します。
ということで、必然的に人類連邦は独裁となります。加えて「力」の全てを為政者(独裁者)が持ってるのだから、いくら為政者が善人といえども、形態としては独裁による恐怖政治に近い形になると思います。
自分がもし人類連邦の住民だったら、と考えてみて下さい。
武器は全て取り上げられ、政策は上から下への命令で決まる…人間には自分の意思が存在しますから、そんな不自然なこと受け入れられませんし、当然政府に不満を持ちますよね。そして、いつかは独立運動が起きて人類連邦は崩壊します。
本誌7〜8pのフョードルのセリフ「巨大な人類連邦、世界平和の為の「独裁」、そんなものは民衆自身が許さない。お膳立ての人類連邦と平和は、それを不自然と感じる義勇の一派を生み、分裂と独立運動の果てに崩壊する」はこのことを指していると思われます。急に背景にドラクロワの「民衆を導く自由の女神」が出てきたのは、上記のことを民衆によって民主主義を取り戻したフランス革命に例えているのだと思います。
二つ目の「後継者問題」も、上記の独裁問題に関連しています。
これは個人的な考えですが、独裁の最大の問題は後継者問題だと思っています。いくら自由と民主主義がない独裁といえども、為政者が善人のうちはまだマシです。しかし、為政者の人格が急に変わったり後継者が愚かな人間だったらどうなるでしょうか。上が暴走しても止める手段はなく、結果民衆が困窮したり戦争が起きたりします。これが独裁最大のリスクです。
作中で福地はワンオーダーの管理者として福沢を指名するといい、福沢は人格的に優れているのでそこまでは感動的な物語として成立しますが、次はどうするのでしょうか?人類連邦という仕組みを作った後に愚か者の手にワンオーダーが渡れば人類全員滅亡レベルの大惨事が起きる可能性もあります。
後継者の指名制度を確立させずに人類連邦を作るのは非常にリスクが高いと言えるでしょう。
また、フョードルの言うとおり現在の主権国家体制は18世紀ごろに確立したもので、まだ300年も経ってない思想です。宇宙にまで人間開発が進めば、従来の主権国家体制が崩壊し、そもそも人類連邦なんて成立しなくなる可能性もあるでしょう。
ここまで、福地の平和論の概要と問題点について述べてきました。
今月の本誌でフョードルが福地に「お前は人類連邦の欠陥を源一郎に黙っていた。邪悪とは貴様の事だ。」と非難されていましたが、私も福地さんの平和論には欠陥があると思います。(←アニメ61話視聴時から思ってた)私もフョードルと同類かもしれません。
余談:福地の平和論はリベラリズムか?
いくら「善と徳」を重視していると言っても、平和のためにワンオーダーで独裁!という思想をリベラリズム側に置くのは抵抗がありました。
ただ、福地の平和論をリベラリズム側に置いたのは大きな理由があります。
それは、彼の思想が、戦後日本最大のリベラリスト坂本義和の「国連警察軍駐留論」と似ていたからです!(←誰?)
「国連警察軍駐留論」で坂本は日本の非武装中立を説き、自衛隊の統帥権の一部を国連に委任する案を提唱していました。詳細は省きますし細かく考えると全然違うのですが、軍の統帥権を超国家機関(国連)に委任することで主権国家の概念を根底から変えると言う点では福地の発想と類似しています。
最初文スト25巻を読んだ時、作者はこれを元にこの話を考えたのか、または自力で坂本と同じ思想に辿り着いた天才なのかどっちだ!?て一人でテンション上がってました。
現実の権威ある学者が「人類軍」を本当に考えてたと思うとすごく面白くないですか?面白いと思うの私だけか…。
フョードルの世界平和論-リアリズム?
では、今月号でフョードルが提唱した「世界大戦による恒久平和」論はどうでしょうか?
まず、世界大戦で平和をつくるって思想が意味不明ですよね。
これには二つの捉え方があると思います。(まだ情報が少ないから両方違ってたらごめんなさい)
一つ目は、リアリズム的な考え方を応用する方法です。
先ほど紹介したリアリズムの中の「勢力均衡」論を思い出して下さい。勢力均衡論では、国家(陣営)と国家(陣営)の力がお互い同じくらいで、力関係が均衡した時に平和が成立します。
冷戦期の米国vsソ連を思い浮かべてください。冷戦期、人類滅亡のリスクがあるにも関わらずお互い核を増やし続けたのは、超単純化していえば勢力均衡を成立させる為だったと言えます。
冷戦中、互いの陣営内(資本主義国側・共産主義国側)では、一部を除いて戦争は起きませんでした。明確な敵がいるかつイデオロギーでまとまっていれば、対他陣営に比べて同陣営で争いが起こることは少ないと言う事です。
これの「人類vs異能者」verを考えてみて下さい。
勢力均衡論を応用すれば、人類側の戦力と異能者側の戦力が均衡していれば、人類・異能者間でいくつかの戦争は起こってしまう可能性があるとしても、互いの陣営内では結束し平和を実現することが可能となります。
例えを出すのは本当に悪いのですが、北朝鮮・韓国間で戦争が起きてしまっても韓国と米国は戦争しない、むしろ結束するという感じです。
他陣営との間では戦争が起きているが、同陣営内では平和が実現するという状態です。フョードルが言ってるのは「(人類・異能者間の)世界大戦により(人類内での)恒久平和を実現する」ということではないでしょうか。
ただ、勢力均衡の考え方だと人類と異能者側の戦力が均衡していればそもそも戦争にならないはずなんですよね…。(冷戦中、米ソが全面戦争にならなかったみたいに)
フョードルの見積もりだと人類側の戦力の方が若干大きいのか、それかやはりどうしても異能者を地上から消し去りたい強い思いがあるのでしょう。
二つ目は、これは本当に邪悪だと思うのですが、人類から異能者を隔離(差別)の対象とし敵視させ、人類側を結束させるという考えです。
これは戦力が圧倒的に人類>>>異能者だった場合に成立すると思います。
例を出すのは本当に良くないのですが第二次世界大戦中にナ○スがユ○ヤ人差別を煽って国民を結束させたみたいな感じです。
「憎悪の連鎖」「人間の醜さ」を利用するという表現が何度も出てきたので、この考えもありうるかなと思い、提示しておきます。
ただ、個人的にフョードルの考えは一つ目の勢力均衡論に近いのではないかと思っています。
二つ目だと、戦いが起きても世界大戦と言う規模にはなりませんし(ただただ一部の地域で異能者に対するいじめが起こるだけ)、ある程度人類側と異能者側の力が均衡してないと千年の戦争の継続と人類側の平和は無理です。
人類側≧異能者側程度の勢力均衡に近い力関係で千年戦争した後、じわじわ異能者側を追い詰めて最終的には異能者を皆殺しにするという算段なのでしょう。(←文章化すると言ってることえぐい)
あとこれは個人的な考えなんですが、異能者を地上から消した後にワンオーダーで人類側の武器も全部廃棄させれば真の恒久平和が実現すると思います。(地上から武器が全て消え去るわけだから)
ただ、フョードルが人類の恒久平和(笑)のためだけに動いてるようには思えないですし異能者を消し去りたい別のインセンティブがありそうですよねw
福地とフョードルの平和論の比較・解説・考察は以上です。
これらを踏まえた上で、どちらが良いと考えるかは読者に委ねられていると思います。
この記事がその判断材料として少しでも役に立てば幸いです。
⚠️以下筆者の個人的な考え⚠️
⚠️思想dis≠キャラdis⚠️
せっかくここまで書いたので、フョードルの平和論に対する批評も書かせてください。
ここから先は筆者の超個人的な意見&フィクションにマジレスし続ける異常者と化してるので、興味ない人はブラウザバックをお願いします!
フョードルの平和論への批判
作中で、フョードルは福地について「彼の世界平和の夢は最初から死んでいます」と述べており、確かにフョードルの見る未来からしてみても、国際関係論の観点からも、福地の平和論には欠陥があると言わざるを得ません。
では、「“善”より“自然さ”、“徳”より“ありのまま”」を尊ぶフョードルの理論は正しいのでしょうか?
それは読者の判断に委ねられていますが、私個人が考えた問題点を挙げていきたいと思います。
理論的な問題点①リベラリズム的視点の欠如
まず、理論的な問題点を2つ挙げたいと思います。
一つ目は、「リベラリズム的視点の欠如」です。
これは福地さんに対する批判の裏返しと言えるかもしれません。
“善”や“徳”なしに“ありのまま”で闘争し続ければ、双方の軍事力は増大し続け、いつか均衡が破綻した時に双方が滅びます。
軍事力増大のコストも双方が滅びるリスクも鑑みれば、“ありのまま”で闘争し続けることは、平和への戦略的最適解†(森さん並感)とは言い難いと思います。
(ゲーム理論†的には全員が武力を放棄するのが一番いい🎶)
先にも述べた通り、現実世界ではリアリズムとリベラリズムは相補関係にあり、共に平和を追求し得る理論です。文スト世界でも“ありのまま”と“善や徳”を両立させることが必要ではないでしょうか。(無難な結論)
理論的な問題点②本当に「人の心が人類を『われら』と『かれら』に分けるから争う」のか?
これはフョードルというより作者の考え方に対する意見みたいで大変恐縮なのですが、作中で繰り返されている「人の心が人類を『われら』と『かれら』に分けるから争いが絶えない」という話について、個人的な意見を述べたいです...。
基本的にはその通りかもしれませんが、「争いが絶えないから人の心が人類を『われら』と『かれら』に分ける」面もあると思うんですよね。
というか、現代の哲学?思想史?だと後者が主流な気がします...。(←マジで素人なので頓珍漢なこと言ってたら申し訳ない)
下部構造が上部構造を規定する?私たちの思考や行動は所属している社会や文化によって決められている?て感じのやつです。
つまり「私達の思考は自分が属する経済・社会・文化に規定されてるよ〜」てやつです。←ゴーゴリくんが泣きそうなやつ。
これをフョードルの論に当てはめると、絶えず戦争をし続ける社会では人々の心は荒れに荒れて、「われら」と「かれら」を分ける醜い心が余計肥大化すると思うんですよね。そういう点からもあんまり良くないし、平和には近づかない気がします。
フョードルの考え方文ストの物語構造の中に位置付けてみる
最後に、政治の話から離れて、文ストの物語構造からフョードルの理論について考えたいと思います。
繰り返しとなりますが、フョードルは「”善”より”自然”さ、”徳”より”ありのまま”」を唱えていました。
そう言われると正しいような正しくないような…?て感じですが、これを文ストストーリー全体の文脈に当てはめるとどうでしょうか。
ここではW主人公の敦と芥川に注目したいと思います。
まず敦についてです。敦が虎に乗っ取られてしまう(自分で変身するのではない)のは、過去のトラウマを思い出す、死にかけるなどして自分の本能に呑まれてしまう時がほとんどです。DAでは「いつだって少年は生きるために爪を立てるんだ」と言ってます。これは、自分の本能(“自然さ”)を統制できず、本能に呑まれれば獣に堕ちると言うことを示唆していると思います。
次に芥川ですが、芥川は太宰さんに認められない・一人だけ闇の世界に取り残される・作中一貫して散々な目に遭うなど、全体的に不憫キャラとなっています。
なんで彼だけこんな目に遭うのか?
それは、芥川が勢いに任せて、すなわち、自分の憎しみや承認欲求など、衝動のまま(ありのまま)に人を殺してしまうからじゃないでしょうか?
それを改善するための敦との約束が「6ヶ月間人を殺さない」です。
衝動(本能)を理性でコントロールしろって言ってるんですね。これは太宰さんも芥川に言外に示唆してる気がします。
これはbeastでも同様です。筆者はbeast初見の時、芥川がなんで探偵社の試験に合格できないのか、なんで妹を助けに行くために頑張ったのにその妹に散々言われてしまったのか理解できませんでした。(人殺すのが悪いと言ってもみんな人殺してるじゃんって思ってた)それはやっぱり、芥川が己の欲のままに、破壊欲のままに、復讐心のままに人を殺してしまうからだと思うんですよね。(本文181p)
理性による統制が存在せず、本能のままに生きてるから妹に「悪の側に生まれた人間」と断罪されてしまったと思うんですよね。
文スト全体からは「本能のままに生きるのではなく、理性で自分を統制し、人格的に成長しろ」というメッセージが一貫して感じられる気がします。
以上のことを踏まえて考えると、「”善”より”自然”さ、”徳”より”ありのまま”」が正解になることはなさそうですし、フョードルもいつか罰せられる時が来てしまうのではないでしょうか。
本文は以上です。ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございます!
あとがき
前々から25巻から唐突に出てきた政治学パート面白いな〜って思って読んでて、マジレスしたくてたまらなかったので(←キモ)、120話を機にnoteを書きました!
当たり前ですけど、フィクションの物語なので政治学的な考えが全てではないですが、少しでも理解に足しになればいいなと思います。
なるべく国際関係論と文スト本編を絡めつつ解説したつもりなのですが、意味不だったら申し訳ございません。
話は変わりますが、文ストの作者は政治畑の方なんですかね〜。それとも軍事戦略オタク?みたいな感じなんでしょうか。
森さんの発言で、ナッシュとかキッシンジャーが出てくるのはわかるんですけど、シェリングって中々出てこないと思うんですよねw 博識ですごいな〜て思います。
質問やご意見は筆者のTwitterへどうぞ!→@_ouran_29
読んでくれた方ありがとうございました!