見出し画像

いつか振り返ったとき、今日は思い出せる日になっているか


365日 × 年齢

生まれてからこれだけの日々を生きてきて、思い出に残っている日は、思い出せる日はいったい何日あるだろうか?

ちなみに私はというと、近年16年間(5,840日)を振り返っただけでも
思い出せる日、思い出が112個だった。

なぜ16年という中途半端な年数かというと、私にとってこの16年が人生で最も劇的な期間であったからだ。
つまり劇的であった分、覚えている事も多い期間なのである。
それですらわずか112個、112日分。

人間は昔になればなるほど残っている記憶は薄く少なくなる傾向にあるから、それより昔はもっと1年単位で覚えていられる日はもっと少なくなると思う。


え・・・ なんか勿体な・・・・


良い悪い関係なく、思い出に刻まれるような日はそうそう無い、ということだ。
つまり何気なく過ごしている日々はほぼ「記憶に残らない」。

無駄とは言わないし言いたくもないし、そして決して手を抜いて生きてきたわけでは無いのに、後から振り返って思い出せる日々は生きてきた人生のほんの数%にしかならないのである。

実際私はいま、3日前を思い出せない。
いや、正確には「何を食べたか」くらいは今のところまだ覚えていられる、というくらいで「思い出に残る日では間違いなく無い日」になってしまった。

なんかそれって、すごく寂しくて勿体無い事なんじゃないかと、ふと思った。
そうか、日記をつけてる人って、こういう時に振り返ることができるんだなって初めて日記の有用性を理解できた。人は忘れる生き物だ、という前提を前向きに受け入れた人間の「過ぎ去った日をいつでも取り出せるデータバンク」なのだと。

だが私は日記を書かない人間である。理由は割愛する。
そんな私が過ぎ去りし日々をなるべく思い出に残る、後から思い出せる日々にするにはどうしたらいいか、ということなのである。
そうして考えに考えた末、昨日からやり始めた手段はこれだ。

いつもの私の行動、いつもの私の思考をぶっ壊すような出来事を作る


これ絶対続かんやつだ・・・

わかる。
わかっているんだ。

何故なら理論的には破綻していて、「いつもの行動」とはいつも同じことを行なっているからいつもの行動なのであって、それをぶっ壊し続けたら「いつもの」の基準がどんどん変化して、いつかは「ぶっ壊すものがなくなる」現象が起こる。
つまり、変化に変化をし続けた結果、「変化が当たり前」になってゆくのだ。
そして変化に富んだ毎日を過ごしているうちに、特定の変化は日々の変化に埋もれてしまって結局思い出しにくくなる。

だがどうだろう、理論的に破綻している愚策にも関わらず、私の心は踊っている。

何故なら昨日1発目の奇行がこれだったからだ。

高架橋の下で突然バレリーナのようにくるりと飛ぶ


麗しき女性がバレリーナのように舞うならまだしも、約半世紀モノのおっさんが突然騒々しく「跳ねる」のである。
だがしかしここは東京。気にする人はいない。東京はそんな人ばかりだからだ。(嘘)
いやあ、私は東京に住んでいてよかった。これが地方ならば即通報案件である。(嘘嘘)

私が高架橋の下で突如バレリーナになった昨日は強烈にメモリアルな出来事になった。おかげさまで死ぬ直前に見る走馬灯の1ページが増えた。
今日はいったい何をしてやろうかというワクワクが止まらない。

皆さんはどうだろうか。
同じ身体で、同じエネルギーで、同じ自分が生きている今日が「忘れ去られてしまう前提」の一日になるのは悔しく無いだろうか。

私は抗ってみる。
皆さんの抗いも是非、教えてほしい。


ちなみに日記を書け、というお言葉は慎んでいただきたい。

以上、解散。




いいなと思ったら応援しよう!