金貨とガーベラちゃん
私は贈り物をすることが苦手である。
我が国で生きるとき、贈り物をすればされ、贈り物をされればする必要があり、両者は強固に結びついているため、結果的に贈り物をされることも苦手である。
理由は
「相手が確実に喜んでくれると分かっているものしか贈りたくないから」
いや、格好つけた言い方をした。
本心は
「失敗したくないから」
私がこれまでの人生で散々重ねてきた失敗に比べたら、「自分が選んで贈ったものが相手に受け入れられない程度の失敗」など取るに足らないものであることくらい分かっているつもりだ。
だが私にはその「取るに足らない」失敗を受け入れる勇気がない。
ちなみに知人友人、各関係者から贈り物を受け、それと同程度の価値を有するお返しを贈ること、社会通念的な価値の交換に対しては何の迷いも生まれない。
まぁもっとも、自分から自発的に贈り物をすること自体、ほぼないのだが。
「大切な存在」に対して「自発的に」贈り物をする____
この条件が揃ってしまうと何かしらのブロックが働き、向き合いたくなくなってしまうのだ。
大切な人から贈り物を受けて、後日それに対してお返しをするのも全く一緒だ。
贈り物やお返しを選ぼうと商品を選んだり調べたりまではするのだが、選び切る事ができず結局画面を閉じる。
要は簡単に言ってしまえば「なんだこの程度かと思われたくない」「ガッカリされたくない」「傷つきたくない」のだろう。
そして私のような人間が何とも生きづらいことに、我が国では「贈り物」「お返し」のイベントをわざわざ海外から輸入したり、商売のために創り出してまで自国の文化にしている。
そんな私に今年も結婚記念日がやってきた。
さてどうしたものか・・・
不思議なことに誕生日と記念日は毎年やってくるのである。
悩みに悩み抜いた私はついに、自分にはこの「贈り物をする」才能がないのだということを受け入れ、
「どうせ正解など分からないのなら、自分が欲しいものを妻にあげよう」
という結論を導き出した。
贈り物の才能があるそこのあなたならもうお気づきかと思うが、「正解」などと考えている時点でアレなのである。
ようやく問題解決!
に思えたが、私は早速次の問題点にブチ当たった。
「自分が欲しいものってなんだ?」
私には物欲がない_____
これまで生きてきて欲しいものが無かったというわけではない。
子供の頃のおもちゃ、ゲーム、大人になって衝動的に買った服、靴、そういったものはある。
だが
「どうしてもどうしてもコレが欲しい」
というものに出会い、思い悩み、買ったという経験がない。
家電製品や車、家、人生の中でいわゆる「高い買い物」をした経験は何度もある。
しかしいずれも動機は
「ソノトキソレガヒツヨウダッタカラ」
であり、自分が心から欲しくて欲しくてたまらなくて買った、というものでは一切ない。
今こうして書いていてもゾッとする。
私はもはや他人への贈り物だけでなく、
「自分に贈り物をすることにすら興味関心がない」
ことに気づいてしまったのである。
たしかに自分の周りが幸せでいてくれれば、大切な人が笑顔でいてくれれば嬉しい。
だがそれはそれ、自分の幸せや笑顔とは別のもの。つまりそこに「自分の幸せや喜び」を紐づけたことがなかった。
約半世紀近くも生きてきて今更「自分は何が欲しいのか」で悩んでいる。
こんなことで良いのだろうか、と不安になった。
あれ?最初に悩んでいた「贈り物が苦手」だとかそんな事よりもコッチの方がよっぽど深刻じゃないか?
私は予想外に発掘してしまった「根本的な悩み」に悩まされる事になった。
そうこうしているうちに結婚記念日は過ぎてしまい、妻には何も用意できなかったことを謝って事情や気持ちを正直に打ち明けた。
妻は「もっと軽い気持ちでいいのに」「難儀な性格ね」(もう少し違う表現だったとは思うが)といった声をかけてくれたが、こちとら大抵の人間が思春期くらいに思い悩むであろう「自分とは一体」問題に中年の今更になって悩まされているがために、気持ちは大層落ち込んだままだったのである。
そんなある日。
テレビで「金の価格が史上最高値を更新」というニュースを目にした私はハッとした。
人類が生み出した世界共通価値である「金」____
オーマイゴッド インゴット!!
コレダ~〜ーーー!!!
上手く言えたので皆で使ってもらってかまわない。
冗談はさておき。
世界が認める価値。これだと思った。
これなら贈っても貰っても嬉しいはずだ!
何故なら世界が!
この世界が認める価値!!
どうだ!
これを否定することは世界を否定することになるのだぞ!
なんというかこうして改めて文字にしても、戦隊物に登場する悪役が吐くセリフのような分かりやすい愚かさ満載で素敵ではないか。
生まれて初めて心から欲しいと思えるものができた。
その名は金地金。(きんじがね)
私は金を買う事を心に決めた。
ところで、金ていくらすんの?
もう笑うしかない。
問題を掘れば掘るほど問題が出てくる。
金ではなく「問題」が世界共通価値だったならば私はとうに億万長者になっていたであろう。
早速ネットで調べてみる。
『い、いちおんすでウン十万円・・・だと?』
たしか画面に向かってこう言ったのを覚えている。次にこう言ったのも。
『いちおんすって・・・ なに』
めんどくせえよく分からなかったので、販売店に赴き直接この目で確認することにした。
だがどうやら私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまったという感覚だけは分かった。
翌日。
都内某所の販売店を訪れた私は係員に案内され、エレベーターに乗せられた先の部屋で、番号札と記入書類を渡された。
もうこの段階でヤッバイとこに来ちまったい、と脳内の私が震えて言い始めた。
無知な馬鹿が食べ物屋さんと間違えて迷い込んだんですごめんなさいと言っておうちに帰してもらおう、だがきっとそんな事をすれば私は後日東京湾の底に沈む事になるかもしれない。
愛する家族の顔が浮かんだ。こんな父で、夫ですまない・・・
そんなことを考えながら部屋の奥へ行くと、そこには私のように捕らわれた金取引に来た猛者たちが何十人も鋭い眼光で順番待ちをしていた。
学生ほどの若者からご年配の老若男女、年齢層は幅広い。
だがどうだ。私のようにビクビクしている人間など一人もいない。
流石は金取引に来た猛者ども、全員何かしらの修羅場をくぐってきたツラ構えをしている。
東京にはこんなヤツらがゴロゴロいるのですお母さん____
ついに私の番号が呼び出された。
個室に分けられた窓口に案内された私は面接と間違えてドアをノックしそうになったが、すんでのところで回避した。
あぶねぇ。猛者どもならどうするかよく考えろオレェ。
冷静にドアを開けると、とても気高いオーラを纏った(イメージの)担当者が挨拶をしてくれた。
『ししし失礼しますッ』
私はとカン高い声を発しながら席に座った。
しまった、『どうぞ』と言われる前に座っちまった。
完全に面接を受けに来た私がいた。
担当者はとても物腰柔らかく丁寧に対応してくれた。
諸々説明をしてくれたあとに、私にこう問いかけてきた。
『この度のご購入目的を教えていただけますでしょうか。』
「その・・・結婚記念日用に・・・あ、いや、自分用でもありまして・・・」
面接だったら落第点の答え方をした。
ところが担当者は
『素敵ですね。きっと喜ばれるかと思いますよ。』
神様か。神様なのかあなたは。そんな慈愛に満ちた返答をしてくれた。
その瞬間、私の自己肯定感がゲージ100を振り切った。
(でしょでしょ!そうでしょ!ナイスアイデアでしょ!だよねー!)
すっかり気をよくした私は意気揚々と笑顔で商品一覧を眺める。
そして沈黙する・・・
最初は金の延べ棒をイメージしていたのだが、それだと最低でもウン十万円。
大型捕食魚から逃げる小魚のように機敏に泳ぎまくる視線を端っこの方へやると、そこには金貨の欄が。
初めて1ケタ万円のものをようやく見つける事ができた私は担当者と視線を合わせず尋ねた。
「ここ、この1/10オンス金貨というのはどのくらいの・・・」
『1/10オンスですと約3グラムほどになります。』
普段生活していて「グラム」単位をあまり意識したことがない私は、必死に脳内単語検索をかけた。
(ん?卵一個50グラムだっけか? あ、毎朝飲んでるコーヒー豆で20グラム・・・)
ダメだ全く参考にならん。
3グラムが全く想像がつかない私に担当者はズバリ教えてくれた。
『1円玉3枚ほどの重さになりますね。』
1円玉を3枚、脳内で積み上げる私。
担当者は笑顔で一度席を離れると、実物を持ってきて見せてくれた。
『こちらになります。』
・・・
・・・・・
ちっっっっっっっっさ!!
そこには1円玉と同じくらい、いやもしかしたら若干小さいくらいの大きさの金貨があった。
だがどうだろう。その輝きときたら、その大きさよりもはるかに大きなものが輝いているかのような神々しい光に感じられる。
「クッ・・・コレが・・・ 金のチカラか・・・」
声に出てしまっていたかもしれない。
『思っていらっしゃるより小さかったですよね。』
「え? あ、そそ、そうですね。」
心を見透かされた私は慌てたが、心はわずか3グラムの金貨の輝きにすっかり奪われていた。
「これをください(いい声)」
数分後。
私は3グラムの金貨が入った300グラムくらいの包みをカバンに入れて店を後にした。
すれ違う人たちがこちらを見ている気がする。
電車で乗り合わせた人たちが私のカバンを見ている気がする。
普段なぜか道を聞かれやすい私であるが、今だけは誰も話かけないでくれ。
わずか3グラムの物体に心を完全に支配された私は怪しい挙動を繰り返しながら無事に帰宅した。
その晩。
帰宅した妻に金貨を見せて言った。
「結婚記念日、遅くなってすまない。(いい声)」
妻にとっても初めての金貨で、たいそう喜んでくれた。
『ありがとう。これから毎年、あ、誕生日も入れたら年2回か。期待してるね♫』
・・・
金破産するわッ!!
こうして無事に「結婚記念日の贈り物をする」かつ「人生初の欲しいものを見つけて買う」のダブルミッションはコンプリートされたのである。
それから私は毎日、金貨を眺めるのが習慣になった。
朝、コーヒーを飲みながらパソコンを立ち上げ、金貨をじっくりと眺める。
なんという輝きだろう。
ため息が出ちゃう。
だって欲しかったんだもん。
約3グラムの金の塊にうっとりする毎日が過ぎていった。
ちょうどその頃、我が子(幼児)が花に興味を持ち始めた。
近所や公園などで花を見つけては楽しそうに愛でる我が子。
親としても微笑ましく思い、なるべく自然に触れる機会を増やした。
私は幼い頃や若い頃に散々花を見ても
「花だな」
くらいにしか思わなかったのだけれども、不思議なことに我が子と花をたくさん愛でているうちに急に、道端にただ咲いている花の美しさや逞しさ、儚さや健気さに心を動かされ感動が溢れ出るようになったのだった。
なので、今年の春に観た桜はこれまで生きてきて観たどの桜よりも美しく感じることができた。
桜はきっと変わらぬ桜のままなのに。
きっと観る側の「私の何か」が変わったのだろう。
私は花を見て美しいと思える事を幸せだと感じるようになった。
我が子よ、ありがとう。
キミはいつだって私たちに幸せというものが何かを気付かせてくれる。
母の日が近づいたある日。
近所を歩いているときに花屋を見つけた。
これまでその存在を気にしたことすらなかったのに、花を美しいと思えるようになった途端に、私の見えている世界に花屋が突然姿を現した。
そして歩いて行ける範囲にはたくさんの花屋があることを知った。
人間の目とは不思議なものである。
昨年は我が子がまだ小さかった事もあり何もしなかったのだが、花に興味が出た今年は花でも買って「我が子から妻へ」というテイで母の日にプレゼントしたらどうか、なんてふと思いついた。
我が子から母(妻)へ、という主旨の贈り物のため、特に私の苦手意識は働かなかった。
ごく、ごく「自然に」思いついた。
母の日当日。
我が子を連れてコッソリと花屋へ行った。
店に入ったとき、我が子の目がキラキラ輝いたのを今でも鮮明に覚えている。
我が子の手を引き店の中を見てまわると、我が子がガラスのショーケースの前でピタリと足を止めた。
そこには色とりどりのガーベラが咲き誇っていた。
「これにする?他にもたくさんお花あるよ?」
『これ!』
「わかった。どの色にする?」
『きいろ!!』
全て即答だった。
迷いなど一切ない即答。
我が子は真っ直ぐに黄色いガーベラを指差した。
私は正直、その真っ直ぐさが羨ましいと思った。
もっと良いものがあるかもしれない、なんて考えは一切ない。
目の前にある名も知らぬ黄色い花を好きになった。
その事をただひたすらに表現してくるその真っ直ぐさ。
花束にするのではなく、敢えて一輪だけを購入した。
もちろん花束にすれば妻は喜ぶだろう。
だが花束にする喜びは、我が子の今後の経験にとっておきたいという気持ちがあった。
花屋の店員さんが一輪のガーベラを丁寧に包んでくれて、我が子は「たくさんほしい」とも特に言わずに、嬉しそうにそれを手に抱えて店を出た。
家路を歩く我が子のウキウキする様子。
私はその姿を見ていてとても嬉しい気持ちになった。
我が子と同じ、いやもしかしたらそれ以上にウキウキしていたのは私だったのかもしれない。
家に着くと、出迎えてくれた妻に我が子から可愛らしい一輪の贈呈。
『あのねお母さん、これガーベラちゃん っていうんだよ。』
妻はたいそう喜び、我が子を抱きしめて「ありがとう」と伝えた。
そして抱きしめられた我が子もまた、とても嬉しそうに母に抱かれていたのだった。
その様子を眺めていた私もきっと、些細だが確実にここにある幸せに笑顔になっていたに違いない。
「ガーベラちゃん」は食卓に飾られることになった。
先にも述べた通り、これまで花の魅力を知らず家に植物を飾ったことがないため、我が家には花瓶すらなかった。
花を贈るのに花瓶を用意していないところがまさに私らしくて愚かなのだが、妻は家にあった小瓶を洗って一輪挿しにしてくれた。
しかしこれがまた何とも言えない雰囲気で私も我が子もすっかり気に入ったのだった。
それから毎食テーブルに着く毎に家族全員でガーベラちゃんを愛で、そしてまたそのガーベラちゃんを愛おしそうに眺めている我が子を親二人で愛でた。
我が子が選んだ黄色いガーベラちゃんは毎日、何回でも私たち家族全員を幸せな気持ちにしてくれた。
それから私は食卓のガーベラちゃんを眺めるのが習慣になった。
朝、ガーベラちゃんに「おはよう」と声をかけて一日が始まる。
家族を送り出し、コーヒーを飲みながらパソコンを立ち上げて、ガーベラちゃんをじっくりと眺める。
仕事に行き詰まったとき。
気分転換のとき。
一人でご飯を食べるとき。
我が子と二人で。
家族三人で。
我が子が眠りについたあと夫婦二人で。
一日に何度も食卓のガーベラちゃんを眺めた。
なんという美しさだろう。
一輪のガーベラちゃんの堂々とした咲き誇り方。
花弁ひとつひとつの造形。
輝くような黄色。
自然にこのような黄色が出せるなんて。
私は仕事で色を扱うことが多いけれども、ガーベラちゃんの黄色はこれまでに見てきたどの黄色よりも「輝く黄色」だった。
私は日々、ガーベラちゃんに見惚れては癒されていた。
ある日ふと金貨のことを思い出した。
そういえばついこの前まで金貨を眺めていたのではなかったか。
私は久しぶりに金貨を取り出してきて箱を開け、眺めた。
(あれ・・・こんな感じだったっけ・・・)
以前はあんなに心躍って毎日眺めていたのに。
変わらぬ同じ金貨のはずなのに。
決して安い金額ではないその輝きはもっと素晴らしいはずなのに。
私の目がおかしくなってしまったのだろうか。
私は金貨を見ても以前ほど感動しなくなってしまっていた。
気付いたように食卓の方を振り返った私は、ガーベラちゃんを見た。
もう一度金貨を眺める。
そしてもう一度ガーベラちゃんを眺める。
まさか・・・
私は半ば慌てたように、だが同時に真実を知る恐怖に慄くように、金貨をガーベラちゃんの隣に置いてみた。
人からなんと思われようとかまわない。
どうせ今ここには自分以外誰も居ない。
私は私の感じたことを正直に口にした。
・・・ガーベラちゃんの方が美しい
気付くと涙が流れていた。
悲しかったのではない。
悔しかったのでもない。
ただひたすらにその美しさに感動して泣いてしまった。
人間の都合で金貨と隣り合わせで比べられて。
それでも劣るどころかより美しく堂々として。
自分の感性がどうにかなってしまったとしてもかまわない。
私は今ここにある高価な金貨よりも一輪のガーベラが美しいという「私の真実」の美しさに気付いた、気付くことができたことの幸せを噛み締めて泣いた。
それからしばらくして、ガーベラちゃんは枯れてしまった。
私は今もまだ、贈り物が苦手のままだ。
きっとこれからも贈り物で頭を悩ませるのだろう。
だが私なりに真剣に向き合い、悩み、考え抜いて金貨を選んだことに後悔はない。
むしろ自分の選択に感謝している。
なぜなら私はこれからも贈り物と向き合う度に、あの日金貨と並んだガーベラちゃんを思い出して、本当に大切なものを思い出すことができるからだ。
私の選択が運んできてくれた宝物だ。