こんなにも安らかな日曜の午後にもあの感情はやってくるので、きっとこれはもうなおらないのだと思う。
自分はその感情がやってきてからその反動としての生きたい、生きなきゃという思いでここまでやってきているので、逆にそのどちらもなくまあ生きてるし生きるんじゃね、というおそらく「ふつうの」人たちのことがもうずっと前から分からなくなっている。
そしてそのまあ生きてるし生きるんじゃね、という状態が幸せの必要条件のひとつなのだと思う。
この(いまの自分のほうの)状態から考えると、人は結局だれかとの「関係」においてしか、ただしく「命の大事さ」を認識できないのではないか。
そしてその(「ふつうの」人のほうの)生きてるし生きるんじゃね、は、おそらくその「関係」が所与の状態となっている。
だからわざわざ大事だ、とも感じない。
また別のこととして、ある種の人はおそらく、忙しさによって最期を選ぶとしても、実際にそれを選ぶのはその最中ではなく、たまたまその忙しさから逃れた日、ただしまたその後にもそれがやってくる日、なんじゃないか。
少なくとも自分はそちらのタイプなのだと思う。
それを実行したことも、実行しようとしたことも、実行しようとするための準備をしたことも、その準備のための方法を調べたこともないので、自分はきっとその階層の5段階のうちの1にも満たない。
とはいえ、あらかた仕事を片付けた翌日の、いつもの店への日用品の買い出しの帰りの、暑くも寒くもなく雲ひとつない空の下で歩いていても、
過去の加害や被害がふとよぎっただけで、
また、
つい今買ったシューズソックスについているタグをハサミで切って外したときに糸がほころんでしまった、
程度の「刺激」ですらもその感情はやってくるので、
きっともう生きてるし生きるんじゃね、という状態にはならない、というか、それでいいと思うしかないし、もし今後それが訪れたとしても、そんな数えきれない機会のうちのたまたま一回なだけで、大したことではないのかもしれない。
その日がくるかは別として、こうしてアピにならない程度に開示しつつ、治療と称した何かでごまかしつつ、まあそういうふうでない最後がくるまで生きていくんじゃねと思う。