帰って来れる島根をつくる
島根出身、9年前にUターン
島根出身で、大学は徳島大学へ。就職はリクルートの岡山配属。26歳でUターンして9年になります。
いま、いわゆるパラレルキャリアというんでしょうか。奥出雲町・横田高校の教育魅力化コーディネーターと、地域・教育分野の財団法人職員と、小さな会社の経営と、NPO法人の理事をさせて頂いています。
※ブログの内容は、「地域で働く「風の人」という新しい選択」(著者 田中 輝美, 藤代 裕之, 法政大学藤代裕之研究室 )にも一部掲載されている内容です。
面接で言われた「島根はいいの?」
就職活動のときに、さらっと言われた言葉です。
別に気にしなきゃいいんですが、私はまともに受け取ってしまい、立ち止まってしまいました。
「島根出身なんですね、島根はいいですか?10年後も、弊社に働きたいと思いますかって?」
大学2年のときに兄が亡くなり、今振り返ると精神的に不安定な大学生活を送っていました。私はもともと島根に帰るつもりはなく、将来は海外で仕事をしたいとぼんやり考えていました。しかし、突然の兄の死と親のことを思うとすぐにどこに住むかという決断はできませんでした。
そして大学3年のときに決めたのが、「今すぐには島根に帰らないけど、いつか帰る。」でした。
その後、入社した会社はリクルートでした。OB訪問をしたときに、向き合ってくれた社員さんに憧れ、ここで働きたいと強く思いました。地方拠点の新規開拓営業。最初はダメダメ営業マンでしたが、先輩に鍛えられ、尊敬するオーナー達にも出会えて、年間MVP という結果も残せました。ただ、同時に燃え尽きた感もあり、「とりあえず」島根に帰ったのが26歳の時でした。
物足りなさからの脱却
好きで帰ったわけじゃない、とりあえず帰ったというのが正直なところです。島根で物足りなかったらなかったら、また出ようと思っていました。
リクルートの仕事はエネルギーに溢れていましたし、岡山で出会った仲間たちとの日々はとても刺激的でした。そのときの生活と比較すると、実家に帰った私は、「物足りない」と感じ、頻繁に岡山に遊びに行くような生活をしていました。
同時に同級生に会うと「島根に帰って、、成長できるか正直不安」という声。そのときは、私も分かりませんでした。
ひとまず、自治体が企画するまちづくり分野のセミナーや、メディア講座や、勉強会や。少しずつ色んなイベントに参加してみることにしました。また、島根で放牧をやっている邑南の洲浜さんや、古本屋ビジネスの尾野さんや、島根大学の先生など、何も定まってない私でしたが、島根の先輩方か数珠つなぎに面白そうな人を紹介して下さり、人の縁がつながっていきました。
次第に、飛び込んだことで、「地域と関わりたい大学生」と「大学生とどう関わっていいか分からない」おじさん達と出会いました。
自分の大学生時代と同じように就職活動に悩んだり、また島根にUIターンしたけれど、身動きとれなくて悩んだり、また地域や行政からの期待と自分とのギャップで嫌になったり。
みんな何かしら悩んでいるんですよね。当たり前のことですが。
2009年はちょうど周囲でTwitterが流行りだしたときでした。Twitterで「島根で成長できるだろうか」とか「帰るかどうか迷っている人は私たけじゃない」とつぶやくと、島根出身で東京の大学に通う学生からフォローされたり。彼に紹介され、「他にも仲間がいるんです!」と、大阪や京都や岡山など、「島根に関わりたい!何かしたい!」多くの学生と出会いました。
そうして、1年後にとある行政の方に言われたのが「りえさんはハブ人材なんですね」と。
写真は「島根わさび計画」(2012年)NPOカタリバをモデルに、島根大学と県立大学の学生でチームを組んで、県内の高校や小学校でカタリバを実施しました。大学生達を見守るお姉さん役。
最初は物足りなかった島根の生活か、自分がハブになることで、新しい仲間ができました。大学生はもちろん、Iターンで地域おこし協力隊として移住してきた方も私にとっては仲間でした。島根で何かをやろうとする、エネルギー。それは私が求めていた自分の居場所でした。
若者が帰ってきたいと思える町
私は家の事情もあり、たまたま島根に帰ってきましたが、同世代の友人たちはまだまだ県外に住んでいます。当時28歳でしたので、友人たちは就職して5年経ったけれど今後どうしようかな、と悩む時期でした。もちろん、様々な考え方があっていいのですが、島根と都会の間で悩んでいるんだったら、ひとまず帰ってみるのもいいんじゃないと今は思っています。
島根で一緒に何かをやる仲間が欲しい。友人が島根に帰ってくるためには、何ができるのか。仕事がないと言うと友人も多かったので、彼女が興味ありそうな求人を送り付けることも何度かありました。(勝手に。ウザかったかもしれない)
実際、求人はあります。ただ、「島根だとつまらなそう、成長できない気がする」と言う友人も珍しくありませんでした。
「大学生や20代の若者が、島根で挑戦できるように、島根で成長できるようにならなきゃダメだ!」そう強く感じたのがUターンして1年目の終わりでした。
江津へ~NPO てごねっと石見設立~
その後、ひょんな縁から島根県江津市のビジネスプランコンテスト(Go-con)の募集を発見し、これまでの想いをただ書き連ね、地域プロデューサー部門にエントリーしました。ビジネスプランとしては未熟でしたが、若者と地域が挑戦できる町を目指して中間支援組織をつくりたいと宣言し、その結果、大賞を受賞しました。
このビジコンを主催した江津市は、県内でも市ではワーストの人口減少率。誘致企業に頼った雇用の確保だけでなく、「創業がてきる起業家を呼ぼう!その為にビジネスプランコンテストを開催しよう!」と思いきったチャレンジをする行政の方々がおられました。同時に、起業家を支援する受け皿も作らなきゃいかんと、NPO法人を設立も検討しているところでした。
私が目指したい方向性と江津市のタイミングがちょうど重なり、2011年4月NPO 法人てごねっと石見設立。
企業、教育者、行政など地域の仕掛人11人が理事となり、そこに事務局スタッフとして本宮(旧姓田中)が加わりました。人材育成、創業支援、商店街活性など街を面白くするぞ!と、エネルギーを高めていきました。
当時、松江や安来の方に「江津に何をしにいくの?なんもないよ」と何度も言われました。それでも、行くと決めたのは、ようやく島根で挑戦できる!という期待感、わくわくでした。
地域コーディネーターとして
私はそこで地域コーディネーターと名乗り、理事長の後押しもあって、様々なチャレンジをさせて頂きました。大学生と農村コミュニティをつなげて、花田植を盛り上げたり、商店街イベントに大学生に関わってもらったり、大学生サークルてごねっとを結成したり、また県の委託事業て地域コーディネーターを配置事業や、島根県ビジネスプランコンテストを開催させて頂いたり。また、県内だけでなく、NPO etic. のチャレンジコミュニティにも研究員として研修など関わらせて頂きました。
地域コーディネーターの理想形があったわけではないですが、街の人の声を聞き、人と人とを繋げ、新たな価値を生み出していく仕事だと自分で認識していました。
その後、駅前の再開発に伴い私達が江津で果たすべく役割も変化してきました。スタッフも増え、代替わりながら、駅前複合施設の運営や、空き店舗の20件以上の新規創業を仕掛けたり、ビジコンや市民大学の開催をしています。過去に、何もない、と言われた江津が、今では確実に「江津って面白いね」と認知されるようになっているから不思議です。(NPO設立のときに目指した形以上の大きなうねりがあって、江津の街の皆さんのおかげです)
2016年 地域再生大賞を受賞しました。
次なる道に進む〜高校と地域〜
その後、妊娠・出産を迎え、まちづくりで大事だと思っていた夜の会議(飲みニュケーション)ができなくなったことで、いったんまちづくりから少し離れる決意をしました。
夜の飲み会はとても大事だと思うのですが、そこに参加したくても行けない人がいる、動きたくても動けない人がいることを出産を機に学びました。
そして、地域コーディネーターとして大学生と地域の連携活動をしていたときに気になっていたことが、地域から見たときの高校との距離感や閉鎖性です。
NPOでボランティアを募集しても、小中や大学生と比べて高校には関わりにくいと正直感じていました。度々地域での発表会に足を運んでくださる先生もいたのですが、何かこう壁のようなものを感じていました。(今は感じませんよ)
また、NPOか主催するイベントに関わってくる若者はいわゆるアクティブ層でした。そうじゃない、島根に生きる普通の高校生が何を考え、どう思って過ごしているのかもっと知りたいという気持ちもありました。
島根県内には私立大学がなく、高校を卒業した後、6割の生徒が県外に流出すると言われます。
「帰ってこれる島根をつくる」ためにも、高校へのアプローチが必要だと勝手な使命感を持ちつつありました。
そして、タイミングよく、奥出雲町役場の方に誘われ、地域コーディネーターから、「高校魅力化コーディネーター」として肩書を変えて、高校現場に飛び込みました。
ちょうど、海士町の高校魅力化の取組の成果が出始めた時期でした。
NPO時代にお世話になった先生も横田高校に勤務されており、職員室にとっては異色の存在ではありながらそこまで抵抗されることなく、高校魅力化コーディネーターとしての活動がスタートしました。
(高校魅力化コーディネーターについては詳しくはこちら)
自分の居心地のいい場所
それから5年。10人もいなかった、島根県内のコーディネーターも今では35人に増えました。私は、コーディネーターという、学校と地域をつなぐ、生徒と地域をつなぐ人材や機能は、まちづくりや教育の世界でも非常に価値があると考えています。もちろん、ただのつなぎ役ではなくて、未来を作る動きへ。
2017年4月から、奥出雲町の教育魅力化コーディネーターをしながらも、兼務で一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォームのメンバーとして、新たな挑戦をしています。
帰ってこれる島根をつくる旅は、山の何合目なのでしょうか。この言葉は、ある意味悔しさから来ている言葉です。「島根には何もない」と言われて悔しかったから、いま、自分の人生で証明しようとしているだけかもしれません。
Uターンして9年。娘も春から小学生となり、地域に対しては一住民として、また学校に対して保護者として関わるフェーズとなりました。
大学生だからできることがある、20代だからこそ、30代だからこそ。親としてできることもある。挑戦をしたい人も、自分のペースでいく人も、家庭で地域で学校で、それぞれの役割を果たしながら、自分の居心地のいいコミュニティを作り出していくことが、私の島根の生き方です。
地域のために活躍して欲しい、わけではなく、それぞれの人生が幸せになりますように。環境に縛られず、自分の人生を作っていけますように。
次の世代に繋がりますように。
thanks イシクラモモコ!!