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それでもと何度でも<小説|第一章>
〚あらすじ〛
主人公の山﨑楓は、一人娘を抱える31歳のシングルマザー。離婚を機にスナックなれそめのホステスとして働き、水商売と家事育児を両立していた。毎日のように客と疑似恋愛を繰り広げる楓だが、プライベートで恋愛をする気に一切なれなかった。そんな彼女の前に現れた1人の男。その男との出会いによって、楓は大きく変わっていく。
恋に愛に悩み続けた女が、最後にたどり着いた答えとは…。
プロローグ
目覚まし時計が鳴り響く部屋に、朝日が差し込む景色。アイロンのかかった皴ひとつないシャツの着心地。満員電車に揺られながらイヤホンから鳴り響く懐かしい音楽。時間に追われながら食べるラーメンの味。夕日が沈んだあとの商店街を通り抜ける時の香り。どれだけ時間は流れても変わらないもの。
あの日、言えずにいた言葉は今となっては言う必要がなかったと感じているが、今のあなたはどう思うだろうか。
知っていたのだろうか…。あなたが居なければ、私は知らないままだった。あなたの知っている私はどこにいるのだろう…。
第一章 オープン
1.夜の女
なぜこうも男って生き物はチョロいんだろう。今週は3日。先週は皆勤賞。カウンター越しに私を見つめる男は、あと何回引っ張れるだろうか。
本人は遠回しのつもりかもしれないが、あからさまな口説き文句はめんどくさくて仕方ない。ばつが悪い質問を向けられた日なんてたまったもんじゃないが、考えさえすれば回避術はいくらでもある。今夜はどうやって回避してやろうか。とりあえず、べたな戦法を繰り出して反応が悪ければその時考えればいいか。
私はグラスに入った酒を一気に飲み干し、小さく深呼吸をする。そして、視線を左足元に落とし「子供が居なかったらなぁ…」と呟いた。その後は下唇を噛んでわざと数分黙ってやった。
すると、男は目を泳がせ急にそわそわとし始める。一通り不安を煽ったら、空になったグラスに手を添えチラッとだけ相手の目を見てはにかんでやる。すると、男は息を飲み、私に決まってこう言った。
「楓ちゃん、他に飲みたいものある?」
気のある素振りを見せ、期待をさせるくせに核心だけは触れさせず雲隠れを繰り返す。男は好意を向け続けていいのか、諦めていいのかすら分からない状態になってしまう。気付いた時には時すでに遅し、抜け出せない色恋営業の蟻地獄にはまっている。
私がスナックなれそめのカウンターに立つようになったのは、店前に貼られた手書きの求人募集を見て、恐る恐るこの店の扉を開けた1年前。面接だけのつもりが水商売経験者ということもあり、その日からカウンターの中に立っていた。今では、週の半分以上をこの場所で過ごしている。
スナックとは、一般的に女性がカウンター越しに接客する飲酒店。水商売の業態によって様々ではあるが、お店で遊ぶ際の基本料金としてセット料金なるものが設定されている。スナックなれそめの場合、席料、チャームと呼ばれる簡単なおつまみ、焼酎やウイスキーを割る氷、水などがセット料金に含まれている。しかし、そこには一切酒代は含まれていない。スナックなれそめで遊ぶには、セット料金に加え酒代も必要になる。
酒代と言っても、バーのように1杯いくらという形で酒を提供することは少ない。多くの客が焼酎、ウイスキー、ブランデーなどをボトルで注文し、お店にキープしている。スナックは、自分の好みの酒を店にキープし、女性が作る酒と会話を楽しむ場所。いわば大人の社交場だ。
スナックでは店主をママと呼び、ママは従業員を「女の子」や「スタッフ」と言うことが多い。一般的には、ホステスやコンパニオンなどと呼ばれるようだが、そんな呼び方は求人誌位のものだ。
スナックなれそめは、駅前の商店街から一本目の路地を右に入ったところにぽつりと店を構えている。白い外壁に、すりガラスがついた扉。店前には小柄な女性の背丈ほどあるオリーブの植木鉢が飾られており、どこかフランス料理店のような雰囲気さえ醸し出している。
すりガラスの扉を開けると目の前にもう一枚扉が現れ、二枚目の扉からは店内の様子が見えるようになっている。白と黒を基調とした店内はカウンター席が7席、4人掛けのボックス席が1つ。案外こじんまりとした作りをしている。
カウンターには、曲線美を感じるスタイリッシュなデザインの椅子があてがわれていたり、お客様のボトルを並べる棚はいつだって綺麗に整理されており、どこもかしこもママのこだわりと思いやりを感じる空間だ。
オープンから7年経った今も、手入れの行き届いたお店はどこも古びた様子はなく真新しい雰囲気を放ち続けているのは、この店の店主が”あやめママ”だからだろう。
あやめママはどんな人にも物腰が柔らかく優しくて、いつだって美しい。気立てのいいという言葉が、これほどまでに似合う人に出会ったのは人生で初めてだった。胸元まである黒く長い髪と透き通った肌。シルエットが綺麗に見える露出の少ないワンピース。いつだって甘い香りを漂わせて女性らしい艶やかな声でしっとりと話をする。「うふふ」と口元に手を当てながら笑う姿なんて、どこかのご令嬢のようにも見え40代だと聞いた時には腰を抜かしそうになった。
頭の先からつま先まで…いや…言葉使いや所作までもが抜かりなく美しい。けれど、決して派手なわけではなく上品さしか感じない。そんなあやめママに、ウットリした表情を浮かべる男は1人や2人じゃないし、女の私でも惚れそうになる程、この街一番の色女だと私は思っている。
あやめママと出会う前の私は、どこかいつも落ち着きがなく何をしていても物音を立ててしまったり、気を抜くと言葉遣いも荒くなり、ガハハと笑うような女だった。しかし、この1年あやめママを見よう見まねで接客していくうちに、男達は自然とウットリした表情を私に向けるようになっていた。
「初めてなんですけど、2人いけますか?」
声の方に振り向くと二枚目の扉を半分開き、小太りの男が扉のすき間から顔を覗かさせていた。偶然入口付近にいたママは、自分の目の前のカウンター席の方に手をそっと伸ばし「あら、いらっしゃいませ。こちらにどうぞ。」と自然に席を案内した。
新規の客の来店に合わせ、私はいつも通りおしぼりを準備する。その際、あやめママに目配せをすると何も言わずママは微笑んだ。1年間の間、平日はあやめママと2人で営業することも多く、アイコンタクトで会話ができるまでになっていたため、このお客様を接客してねという意味だと察することは容易かった。
新規の客が来店したことで、私が接客していた皆勤賞の男はひとりになってしまう。あやめママはすかさず、その男の横に座り「一目見た時から思ってたんやけど、今日のシャツよく似合ってるわ」と男の肩に触れ、スムーズに接客を交代する流れをつくり出していた。
お客様が来店すると、まずはおしぼりをお客様に手渡す。常連客の場合は棚からキープボトルを出し、新規客にはボトルメニューを広げながらセット料金などを説明する。私はおしぼりを渡す際、1人ずつ目を見つめ微笑みながら「いらっしゃいませ」と言うことにしている。
目を見つめるのは、相手がどんな反応や表情をしているのか、どんな物を身につけているのかを自然にチェックできるから。新規客の場合は、入店時からの席に着くまでの間もよく観察し、自分の客になる素質があるのかをよく見定める。男なんてたいてい第一印象で「女」か「それ以外か」を判断しており、実に分かりやすい生き物。興味のない場合には、あからさまに無愛想な反応を示すことも多いからだ。
私から見て左側の席に座った男は、扉を開け店内を覗いていた小太りさんだった。見た感じ30代半ばといったところ。彼は席に着く前にズボンのポケットからPRADAの長財布を出し、机の上に置いてから落ち着いた感じで席に着いた。決してイケメンとは言えないが、瞳の奥が優しく爽やかな雰囲気を纏っていた。服装もシンプルにシャツを羽織っているだけなのだが、清潔感があり好感が持てる。
そんな小太りさんの目を見つめながら、おしぼりを手渡すと彼は少し照れくさそうに両手でおしぼりを受け取り「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言った。お連れ様も同じ雰囲気の方なら良かったのだが、小太りの彼と共にやって来た右側の男は何かとガチャガチャしている。乱暴に椅子を引き、踏ん反り返って席についていた。体型は痩せ型だが、爬虫類のような顔をしていてどこか胡散臭い。髪は脂っぽく、作業着のボタンを胸下まで開け粋がっている感じも妙にダサい。
左の小太りの彼と同様に、目を見つめおしぼりを渡すとその男は片手でおしぼりを奪い取った。所作の悪さに出来が悪い奴と少しイラっとした。それに終始ニヤニヤとした表情を浮かべ、私やあやめママを舐めまわすように見ていたので胸がむかむかとするほど気持ちが悪かった。
おしぼりを渡し終え、視線を感じる方にふと目をやると左側の小太りの彼が私を見つめていた。目が合うと彼はすかさず目をそらし、気まずそうな表情を浮かべた。小太りの彼は、私のことを女と認識したようだ。
ボトルメニューを広げセット料金の説明をしていると、小太りの彼は説明に合わせて静かに頷いているがガチャガチャとした男は小声で料金が高いと文句を言っていた。その言葉を聞いても小太りの彼は動じることなく私の説明が終わると「先輩、ウイスキーでいいですか?」とガチャガチャした男に尋ねた。明らかに雑魚キャラの雰囲気を纏っている男が先輩だと知って、私は驚きのあまり思わず目を見開いてしまった。そんな私に気付く筈もないガチャガチャした男は「あぁ、ええよ」と偉そうに踏ん反り返って応えた。
「ボトルは知多で、ハイボールにして下さい」
小太りの彼は、慣れた様子でボトルと飲み方まで丁寧に注文した。ハイボールは、グラスに氷を入れマドラーで氷をかき混ぜる。すると、グラスがキンと冷えうっすらと解けた氷の水がグラスの底に少し溜まる。その水を捨て、ウイスキーを注ぎ氷に当たらなように注意しながら炭酸水をゆっくりと注いでいく。炭酸が抜けないようにマドラーでひと混ぜすれば完成するのだが、毎日のようにお酒を作りながら話をするせいか意識せずとも自然にその動きが出来てしまう。私はハイボールを作りながら、小太りの彼の方を向いて話しかけた。
「はじめまして。私、楓って言います。お名前なんとおっしゃるんですか?」
会話を始めるためのこのセリフは、どんな相手であっても1文字足りとも変更しない新規客用のテンプレートだ。セリフを言い終えるタイミングで、少し首を傾げながら出来上がったお酒をコースターの上に置くまでがワンセットになっている。
「野田って言います」と小太りの彼が少し照れくさそうに応えると、横の男が「俺は、アキラ!」と続けた。正直「うるせーな、黙れよ!」と言ってやりたいところだが、ガチャガチャした男もお客様には変わりない。うるさい男にも私は軽く視線を向け、にっこりと微笑みながらハイボールをコースターの上に置いた。再び野田の方には、柔らかい眼差しを向け、「下の名前は、なんて言うんですか?」と尋ねた。
「ふうまって言います」
「ふうま?どんな字書くの?あ、ちょっと待ってね」
そう言って私は、すかさずメモを取りに行った。実は、これもテンプレート。正直どんな字を書くかなんてどうでもいいし、興味すらない。けれど、自分に興味を持ってくれているという印象を、相手に植え付ける為にメモを用意する。「どんな字か教えて」と野田にペンを渡すと、すらすらとペンを滑らせキッチリとした字で彼はフルネームを書いた。
”野田 楓真”
私は野田のフルネームを知り思わず「あ、私とおんなじ漢字や!」と言いながら「楓」という字に指を刺していた。こんな偶然はそうそう起きない。突然やってきたチャンスを最大限活かすため、指をさした後すぐに野田の目を見て「運命感じるねっ」と言ってのけたのは我ながらファインプレーだった。その言葉に、野田ははにかんで小さく頷いた。私と彼のいい雰囲気をぶち壊すように「俺のも聞いてよ〜」と男が声をあげる。めんどくさいったら、うっとおしいったらありゃしないけれど、空気の読めない男にもメモとペンを手渡した。
「野田さん、いつもなんて呼ばれてるの?」
「えっと…野田君とか…楓真とかかな」
「んじゃ、”ふっち”って呼んでいい?」
「え、ふっち!?」
野田は予想もしていなかったのだろう。びっくりしましたと書いているような表情を浮かべた後にすぐさま「はじめてのあだ名や」と笑った。
ここまでの流れが私の常套手段。まず始めに、丁寧な口調で名前を訪ね、メモを取りに行く際に自然にタメ口に変えていく。そして、相手に名前を書かせた後に呼び名を聞き、呼ばれたことがないであろう変なあだ名を付ける。はじめて呼ばれるあだ名は、相手にとって私を特別な存在だと意識させ、一気に距離感を縮められるから意図的に使っている。
今までこのテンプレートにハマった男は、8割型自分の客になった。皆勤賞の男もその一人で、野田も例に漏れることなくまんまとこのテンプレートに当てはまってくれた。ここまで型にハマればその後は、共通点を探すように会話を展開していけばいい。彼の横に座る男にも時折愛想を振りまきながら、野田から必要なことを聞いていった。年齢、住まい、職業、一緒に来ている人との関係性、彼女や嫁の有無など。
話を進めてわかったのは、野田は私より5つ上の36歳。一緒に来ている男は、彼の得意先で年齢が上なこともあり先輩と呼んでいるらしい。野田は数年前に離婚し、娘2人は前妻に引き取られたそうだ。今は隣町で1人暮らしをしているらしく、経営している会社が忙しかったこともあり彼女はここ数年出来ていないらしい。
野田との会話で、お互い娘の持つバツイチであることが分かり恋愛観で意気投合することができた。会話の中で深く共感したのは「バツイチや子供が居ることを許容してくれる人と出会えるのか自信ないんだよね」という野田の言葉だった。「そもそも恋愛の仕方を忘れちゃったかもしれない」と笑う私を見て、野田が「同じく!」と少しふざけた感じで共感したのも印象的だった。深い会話が出来てしまえば、あとは食事の話を展開するだけでいい。
「最近食べた美味しかったものってなーに?」と尋ねる私に、野田は左上に視線をやり「天満で食べたお寿司かな?」と応えた。どんなお寿司だったのか気になり質問しようとすると「俺、CMでやってる期間限定のハンバーガー!」と先輩と呼ばれる男が私の言葉を遮った。野田は「あれ美味しいっすよね」と、先輩に共感し私の目を見て「楓ちゃんは?」と尋ね返した。
この質問の答えは、いつも同じ。「楓は、お母さんのお店のだし巻き」そう言って野田に満面の笑顔で向けると、野田の目はこの日一番の輝きをみせた。その後からは、まるで恋人を見つめるような表情を浮かべた野田は、母のお店のことを尋ねてきた。
ここまで計画通り。あとは、話の流れで「一緒に行こう」と誘えば、自然に連絡先を交換する流れになる。連絡先を手に入れることが出来れば、私のこの席での仕事は終わり。連絡先を交換する様子を見届けたのか、あやめママが絶妙なタイミングで挨拶をしに野田たちの席にやってきた。
ガチャガチャした男は、あやめママに一瞬で惹き込まれデレデレしていた。私は野田に小さく手招きし、顔を近づけ「ふっち、あとで連絡するね」と小声で告げた。すると野田は嬉しそうな表情を浮かべ頷いた。
あやめママが野田たちの席で接客を始めたので、私は元いた客の席に戻った。
2.喫茶店
明くる朝、けたたましい音で鳴り響く携帯の着信音で目が覚めた。画面を見ると祖母の名前が表示されている。リビングの壁にかかってある時計に目をやると、太い針は1の数字を指しており私は全てを察した。
「楓いつまで寝てんのや!」
案の定、キャンキャンと吠える犬のように怒り狂った祖母の声。スピーカー機能を使わなくても電話口から響き渡るほどの怒鳴り声が、いつもに増して頭に響いて仕方ない。
「ごめん、アフター行って死んでた」
「また飲みすぎたんやろ。ほんまええ加減にせなあかんで。あんたお母さんなんやからな、しっかりせな!」
「あ、なぎ学校ちゃんと行った?」
「渚は、アンタと違って朝起きて、ちゃんとご飯食べて学校行きましたー。ほんまアンタちゃんとせな、ママに怒られるで」
私がスナックで夜遅くまで働くようになってから、娘の渚は自宅から徒歩3分の母たちが暮らす家で眠りにつき、そこから学校に通う生活を送っている。孫の生活態度やひ孫の生活が心配だが、自身の娘も夜遅くまでお店を経営している為、80歳を超えた老体でひ孫や孫の面倒を見なくてはいけない状況の祖母は、嫌味を言わなければやっていられないんだろう。
祖母が居てくれているおかげで、働くことができている私はただひたすら「ごめん」と「ありがとう」を繰り返すしかない。ごめんとありがとうを繰り返すと、納得がいったのか呆れたようにため息をこぼし「渚にちゃんと晩御飯したりや」と祖母は一方的に電話を切った。
昨夜は、営業後あやめママと皆勤賞男とのアフターだった。あやめママがご機嫌取りをしてくれていたのだが、新規客との私のやり取りにヤキモチを妬き、拗ね散らかした男をなだめるために朝方までバーで飲んでいた。
営業後に、客と共に食事や飲みに行くことをアフターと呼ぶ。私は、基本的にアフターが嫌いだ。営業後のため給料は発生せず、無給だというのに客という肩書きのついた男だから、少なからずご機嫌取りをする為、言葉や表情を選ばなくちゃいけない。本当にアフターはだるいし、何よりもアフターを求める客はめんどくさい奴も多い。
しかし、ただ営業中にニコニコと接客していればお客様が勝手に来てくれるほど世の中は甘くはない。自分自身のポテンシャルがそこまで高くないことを自覚しているし、付き合いをすることで来店や同伴に繋がることも多いため、本心を隠して毎度しぶしぶアフターに付き合っている。
昨夜は想像していたよりも長時間、皆勤賞男はご機嫌斜めだった。何を言ってもそれほど効果がなかったため長時間共に過ごすことしかできなかった。長時間飲みすぎたこともあって、酔っ払った私は寝室に辿り着くことができず、リビングのフローリングの上で気絶して眠ってしまったようだ。
固い床で眠ったせいか身体中どこもかしこも痛くて仕方ないし、キッチンから差し込む日差しが眩しくて頭がズキズキとする。二日酔いで目覚める日は、いつも最悪な気分だ。しかし、元々肝臓が強いのか大抵の二日酔いはシャワーを浴びればスッキリする。ゾンビのように気だるい身体を引きずり、シャワーをサッと浴びるのがいつしか私のルーティンになっていた。
バスタオルで体を一通り拭いた後、アラブの石油王のようにタオルを頭に巻き付け素っ裸のままリビングテーブルの上に放置したスマホを開くと、野田と後輩の明日香からLINEが届いていた。
昨日は、本当にありがとう。
楓ちゃんのお母さんのお店行けるの楽しみにしてるね。近々、いつなら行けるかな?
野田からのメッセージは好意的で、文面からも爽やかさが滲み出ていた。正直チョロ過ぎて面白みにかけるなとも思ったが、この手の客はやりやすい。冷めた表情でそそくさと野田に返事をし、昨夜のアフター男にもお礼の連絡を済ませた後、明日香のメッセージを開いた。
15時にいつもの場所で
ただいまの時刻は、14時半。明日香は、いつだってこうだ。事前に約束もせず一方的に時間を決めて私を呼び出してくるのだが、不思議といつだってタイミングが良い。それに、明日香のこの身勝手さが後輩力をフルに使って、甘えてきているようにも見えて私は結構気に入っていたりする。
約束の時間まで30分しかないので、私はLINEを見た後すぐに寝室に向かった。我が家の寝室は6畳の和室。畳の上に無造作に置かれたダブルベットが窓際に寄せてある。かつてはフローリングに毛足のあるカーペットを敷いて、パステルカラーの寝具があしらわれたような女性らしい部屋に憧れた時期もあったが現実なんてこんなもんだ。
住まい探しの際に、一番最初に妥協したのは絵にかいたような理想の寝室だった。洋室にこだわらなければ家賃を抑えることもできたし、離婚したてで経済的な余裕など1ミリもなく夢や理想なんて言ってられなかった。
しかし、洋室クローゼットへの憧れを捨てきれず、押し入れをクローゼット風にアレンジして使っているのだから何とも滑稽である。
私はそんなクローゼット風の押し入れから、首元が少し伸びたロンTを手に取り、履きなれたデニムに足を通した。風呂上がりでボサボサの髪をブラシで軽くといて、テキトーに髪を束ねメガネを掛ける。元々着飾ることもめんどくさいと思ってしまうたちで、仕事以外の時は決まって10分もあれば用意が出来てしまうこのスタイルだ。
早々と準備を終え、出発時間まで時間があったので私はタバコに火をつけた。一服し終えると、時計の長針は10を少し過ぎていた。タバコとスマホ、財布だけの入ったどこかの周年でもらったノベルティーのエコバックを持ち、玄関に年がら年中置いてあるNIKEのベナッシを履いて家を出た。
自宅マンションを出ると、外はむしむしとしていてロンTのチョイスはミスったなと後悔した。自宅マンション前は、駅に抜ける大通り。街路樹の足元に植えられた青や紫の紫陽花には露が滴っていた。少し前にわか雨が降っていたのだろう。この蒸し暑さにも納得がいく。大通り沿いを駅とは逆の方に歩いていていくと、一軒家がひしめきあう細い路地がある。その路地を曲がった場所に、ひっそりと営業している喫茶店が、私と友人たちの”いつもの場所”である。
私たちのいつもの場所は、喫茶ルックバックと言って古い一軒家の1階を改装し、後から店舗を付け加えた感がにじみ出ている純喫茶。建物の壁には、ツタが生い茂りどこか魔女の館のような雰囲気を纏っているせいかルックバックは比較的いつも静かで知る人ぞ知る店といった感じだ。
喫茶ルックバックを見つけたのは、今の家に越してきてスグだった。周辺に良い店はないかと散歩をしている時に、偶然店の前を通りかかった。
しかし、最初は入ることさえ躊躇した。なんせ魔女の館のような怪しげな喫茶店だ。どんな人間がお店をやっているかなんて想像もつかないから、恐ろしかった。
それに正直お金を払ってお茶をするなら、今どきのオシャレなカフェに行き、写真映えのするような食事をSNSにあげて自己顕示欲だって満たしたい。けれど、最近はどこもかしこも禁煙なことが多くタバコを吸いに店前に出ることがめんどくさいと思っていた。
そんな私の目に飛び込んだのは、喫茶ルックバックの壁に貼られた喫煙可能を示すシールだった。愛煙家である私にとって、オシャレカフェで映えるよりも、いくらだって自由にタバコが吸える証であるシールは魅力的に映った。
一度だけ勇気を出して店に入ってしまえば、それからはこの怪しげな魔女の館のような喫茶店は私の憩いの場になった。そして、いつしか私と友人たちは喫茶ルックバックをいつもの場所と呼ぶようになっていた。
喫茶ルックバックの扉を開けると、カランコロンと味のある鐘の音が店内に響き渡る。ダークブラウンの木目カウンターにはサイフォンが並び、店中にコーヒーのいい香りが漂っていて、タバコのヤニで汚れた壁沿いに設置された本棚にはジャンルを問わず様々な本が置かれている。店内に飾られている照明やなにげなく置かれている置物ひとつ取っても、どれもこれもが味があってルックバックの内装は、昭和レトロで今風に言えばエモいの一言につきる。そして、鐘の音が鳴りやむ頃にいつも少し乾きのある声の女性が「いらっしゃい」と笑顔で出迎えてくれる。
挨拶をしてくれるこの女性が、どうもこの店の店主のようだ。私の目には、店主はずいぶんと歳を重ねているように見えるのだが、どんな年配の女性よりも彼女はいつだって若々しくハツラツとしているように見えた。細身のTシャツにカーキのカーゴパンツを履き、腰には巻エプロン。ビシッとセットされた金髪ショートヘアが良く似合っていて、私は密かに彼女に憧れている。
挨拶をしてくれた店主に頭だけをぺこりと下げ、店の奥にある窓際の席に向かうと明日香がタバコを吹かし外を眺めていた。私が明日香に気付いたタイミングで、年期の入った店の鳩時計が15時を知らせようと鳴き始めた。すると明日香は外を見るのをやめ、私を見つけて小さく手を振った。
「楓ちゃんが遅刻せぇーへんなんて、明日嵐くるんちゃう?」とイタズラな表情を浮かべ明日香が笑った。私は間髪入れずに「嵐ちゃうで、槍が降るんやで?」と冗談を言っておどけながら席に座った。
席に座るとすぐさま、よく磨かれた銀色のトレイにお冷を乗せて店主が「今日もいつもの?」とオーダーを聞きにやって来た。私が「はい、お願いします」と応えると、店主は右手でOKマークを作って微笑み、小脇に銀色のトレイを抱え鼻歌を歌いながらカウンターに戻って行った。そんな店主を目で追いながら明日香は、深く感心するように呟いた。
「すごぉ、あの人いつもご機嫌やんなぁ」
「だから、ええよなっ!」
「ほんまそれな!」と私と明日香は互いに指を差しあった。
いつだって店主がご機嫌だから、喫茶ルックバックは居心地がいい。それに、店内の雰囲気も抜群だ。会話の邪魔にならない程度にムーディーな音楽がレコードプレーヤーから鳴っていて、誰が歌っているのかは分からないけれど心に染み渡るように深く優しい音色を奏でている。いつ来てもカウンターの端には、白髪のおじいさんが座っていて本を読みながらホットコーヒーを飲んでいる姿も情緒があって、何だかホッとする。
私たちが何気ない話に花を咲かせていると「はい、お待たせ。厚切り卵のサンドイッチとアイスカフェオレやで」と店主が私の”いつもの”を持ってやってきた。私が「ありがとうございます」と伝えると、さっきと同じように店主はOKマークを作り鼻歌を歌いながらカウンターに戻っていった。
私の”いつもの”は群青色の丸い大皿に乗ってやって来る。ふわっふわっの白い食パンに、紙タバコの箱よりも分厚い真っ黄色の卵焼きを挟んだサンドイッチを頬張るように一口齧ると、まるで綿雲でも食べているかのようにふわっふわっの触感の後に、卵焼きの塩味が口いっぱいに広がってくる。その余韻を感じながらカフェオレを口に含むと、今死んでも構わないと思ってしまうほどに幸せな気持ちになり顔が綻んでしまうし、青と白と黄色の組み合わせが目までも幸せにしてくれるから、私は気に入っている。
「ほんと、楓ちゃんその組み合わせ好きやな」
明日香は微笑みながら頬杖をつき感心するように言った。明日香のその様子を見て、私の食事が落ち着くのを待っているように感じてなんだか悪い気がした。明日香はマイペースだが話好きでよく「聞いて~」と電話をかけてくる。そんな明日香が暇そうに頬杖をついていたので、「最近どうよ?」と話を振ると、明日香は待っていましたと言わんばかりに饒舌に話し始めた。
明日香と出会ったのは、スナックなれそめだった。私がなれそめに入った時には、明日香の退職は決まっており引継ぎをするような形で今まで数回だけ一緒に仕事をした。ほんの数回だったが、交わした会話の中で明日香が5つ下の弟の康太郎と同級生だったことや、共通の知人が多いことが分かり、妙に気が合った。それからというもの、明日香がなれそめを辞めた後もこうしてよくお茶をしている。
なれそめを辞めた後すぐに、明日香は大阪の有名繁華街のラウンジで働き始めた。私とよく似た性格の明日香が、面倒くさがらず真面目に働き続けているのは意外だったが、今日の会話を聞くからに何だかんだ上手くやっているみたいだ。
「楓ちゃんは、なんか無いの?」と一通り喋り終えた明日香が尋ねた。
なんか無いのと聞かれても少し困ってしまう。上手くいっている明日香に、客の愚痴を言うのも水が差すようで悪いし、育児のあれこれを言っても独身を満喫している明日香にはピンと来ないだろう。どんな女子もが前のめりになり「それで、それで」という恋バナだって出来やしない。これと言って何も無いなと思いながら考えていると、あやめママの一言を思い出した。
「そういえば昨日あやめママがさ、『来月の1週目土曜日出勤してくれる女の子居らんねん』って言ってたんやんか。私もその日出勤やねんけど、明日香出勤出来たりせん?」
「1週目?なんも予定ないから行けるけど…ぶっちゃけ、ちょっとダルいな」
明日香は私を試すような表情を見せたが、これはいつものことだ。明日香がこの表情をしながらダルいという時は了解サイン。「さすが、明日香さん!」とわざとらしくおだてると「しゃーなしですよ」と明日香は笑った。
その日、喫茶ルックバックの窓に夕日が差し込むまで店内には私たちの笑い声が終始響き渡っていた。
3.第一印象
「あぁ〜間に合わへんかも。マジダルい。」
私は愚痴をこぼしながら、洗面台の鏡の前で髪を乾かし「今何時!?」と雄叫びをあげる。「ママ、18:45やでー!」慣れた様子で時間を叫び返したのは娘の渚だ。時計がまだちゃんと読めない渚は、きっといつものように私のスマホの画面で時間を確認し伝えてくれているのだろう。
出勤前の母がいつも時間に追われ慌てふためいている状態でも、渚はいつだって平然としている。そんな渚は、この春で小学生になった。深夜働く母を見て育ったせいか、周りの同世代の子供たちに比べ渚はどこか大人びている。自身の母の職業が水商売であることや、世間では水商売がどういうものだと認識されるのか分かっているようで学校では私の仕事の話はしないようにしているらしい。
私が前の夫と別れたのは、30歳の時。24歳で出会い、交際から数カ月で妊娠し結婚した。計画性なき男女の結婚生活はそれはそれは酷いものだった。度重なる浮気や喧嘩に何年も耐え続けていたのは、私が社会的に終わっていたからだ。私は高校卒業後、まともな職に就くこともせずアルバイトを転々としたり、お金に困れば水商売で働くか、男に生活費をもらい生きてきた。
貯金もなくこれと言った職も持たないまま結婚し、旦那に生活を支えてもらっていた自分が子供を抱えて1人で生きていける自信などなかった。
ことあるごとに罵声が飛び交う家庭の中で一番苦しんでいたのは渚だ。幼い頃からおもちゃのギター片手に即興でオリジナルソングを歌うようなお調子者だった渚は、年々笑わなくなった。最後の方なんて声を掛けられただけでびくびくとするようにもなっていた。
いがみ合う両親を一番間近で見て、いつ怒鳴りあいが始まるかもわからない状況はどれほど小さな心を痛めつけていたのだろう。渚が安心できる場所など家の中にはどこにもなかったはずだ。そんな渚の姿を見て、このままではいけないと思い離婚を決意した。
離婚後、まだ幼い渚を置いて夜に働きに出ることに抵抗がなかったわけではない。けれど、まともな職歴もなく履歴書に何も書けやしないから、仕事の選択肢は水商売しか浮かばなかった。離婚後、渚を育てるために地元に戻ったのは祖母や母の協力なくして子供を育てる自信がなかったからだった。
「今日も、なぎはばぁばのとこやんな?」
「そやで。明日ママお仕事休みやから、起きたらすぐに帰って来なあかんで?ママちゃんがちゃんとせぇって怒るから頼むよ。」
渚は私の祖母のことを”ばぁば”と呼び、自身の祖母である私の母のことを”ママちゃん”と呼ぶ。ばぁばやママちゃん、そして妹の桜が住む家に毎日のように行くようになり渚はよく笑うようになった。今では離婚前のことを「あの時は地獄だったけど、今は天国にいるみたいやで」とイタズラな笑顔を浮かべブラックジョークまで言うようになり、本来の陽気さを取り戻してきたように私は感じている。
「ママ、もう行かな遅刻すんで!」という渚の声を聞き、リビングの時計に目をやると19:40。渚を慌てて実家に送り、なれそめに着いたのは出勤時間3分前だった。あやめママが慌てる私に「今日はきっと遅がけだろうから、そんなに焦らなくていいわよ」と声をかけてくれたが、店の準備を1人淡々とこなしているママを尻目に慌てずにはいられなかった。
「楓、ありがとうね」
用意を済ませカウンターの準備に手をつけようとした瞬間、あやめママがお礼を言ったので何にお礼を言われているのか分からなかった。
「明日香が今日22時過ぎに、お客様と来てくれるみたい」
そう言われてやっとあやめママのお礼の意味がわかった。明日香は「自分が出勤するからには、売り上げをあげなくては」と思って、お客様を連れて来るのだろう。ルックバックでお願いした以上のことを明日香がしてくれていると知り、根っからのホステスだなと思った。
私は明日香に声を掛けただけだ。あやめママにお礼を言われるほどのことはしていないと思い「私は、何もしていないですよ」と答えた。
明日香のように水商売の経験が長いホステスは、自分の給料がお客様の売り上げから出ていると深く理解した上で働いている。時間から時間働いていれば、お店から給料がもらえるなんて意識でいたら夜の世界で長くは生きていけない。
自分が出勤した時点で、時間給以上の売り上げがなければ店は赤字になるため、自らで集客をしたりお客様からお酒をいただきお店に売り上げをあげるのがホステスとしての基本。売り上げをあげることのできるホステスは、店にとっても貴重な存在だ。売り上げを見込めるホステスは、出勤日数や時給を増やしてもらえたり、営業中もサポートしてもらえることが増える。売り上げをあげることで、ホステスにとっても働きやすい状態がお店の中で出来上がるので、WinWinだろう。
今日は遅がけだろうと言っていたママの予想が外れ、私が出勤してから15分後には店は満席になっていた。月初めの最初の土曜日だから飲みに出かけるサラリーマンが多かったのだろう。
ボックス席にはママの馴染みの団体客が座り、カウンター席には最近週2で訪れるようになった野田と、その得意先の会社の方たち。店内はてんやわんや。あやめママは2人では店が回らないと判断し、お客様と来店予定だった明日香に連絡をすると「1人で先にそっちに向かう」と返事をしたそうだ。連絡から30分後には明日香は店に到着し、店の状態を見てすぐさまボックス席の団体客の方の接客を始めた。
そんなてんやわんやしていた店が落ち着きだしたのは、23時過ぎ。22時に来店予定だった明日香の客は、店が落ち着き連絡をくれたら行くとのことで他店で待機してるとのことだった。明日香の客がなれそめに訪れたのは、てっぺんを過ぎた頃だった。
明日香の客は、30代前半の小柄だが目鼻立ちのくっきりとした目を奪われる程のイケメンと、40代前半に見える顔のでかい男の2人組だった。着いた時には、2人は既に出来上がっており「遅いわ!」とふくれっ面になる明日香を見てケラケラと笑っていた。店内にはママに入れ込んでいる50代のお客様1人だったので、私は明日香と共に酔っぱらいの接客をすることになった。
いつものように新規客のテンプレートを話したものの相手はヘベレケ。私の話なんてろくに聞いていない。特に、イケメンの方は呂律が回らないほどの泥酔で「なんだこいつ…」と思った。真面目に接客しても、次に繋がる可能性の低い状態。呆れ顔を必死に隠してとしていた私に気付いた明日香は、イケメンの方を見て「和田ちゃん酔いすぎやん!楓ちゃんが話しかけてるやろ!」と注意した。
すると、突然和田は真顔で私の顔をじっと見つめた。じっと見つめたか思ったら今度は「楓しゃん」とだけ言って、身体も表情もふにゃっとさせて微笑んだ。緩急のある対応にギャップを感じたのか、不覚にも可愛いと思ってしまった。
泥酔だった和田は、その後すぐに突然カウンターで寝始めた。眠る和田の背中を明日香が「起きろ~!」と何度叩いても起きる様子はなく、1人残された顔のでかい男は気まずそうにしていた。すやすやと眠る和田を起こすことを諦め、3人で会話を始めると関係性が浮き彫りになっていた。
どうやら明日香の客は、和田ちゃんと呼ばれる泥酔のイケメンの方だったらしい。和田と明日香が出会ったのは、明日香が20歳の時に働いていたスロット店。和田はそこの常連客で、当時打ち子の元締めをしていたらしい。そして、顔のでかい男は和田の義理の兄。和田に誘われた居酒屋に行くと、明日香が居てお互いにびっくりしたらしい。
明日香と和田の兄の話を聞いて、やっぱりイケメンはクズなんだなと確信した。今知っているだけでも、酒癖が悪くギャンブル狂い。これで借金まであれば、完璧なクズだ。顔が良いだけの男はだいたいろくでもないし、自分の客にしたいとすら思えなかった。
時刻は1時を回り、あやめママが「今日はもうおしまいにしちゃいましょうか」と言ったので各席のお客様の会計を始めた。伝票を持って明日香の元に戻ると和田はまだすやすやと夢の中。
会計伝票をカウンターの上に置き、「おあいそお願いしまーす」と声をかけると、突然和田はカウンターからむくっと上半身をあげた。すると、ポケットをまさぐり折り畳みの財布を出したのだが、中身は空っぽ。小銭たりとも入っていなかった。そんな状態を見かねて、和田の兄が苦笑いでカード差し出した。案の定、和田は絵にかいたようなクズだった。
すべてのお客様を店前まで送り出し、閉店後明日香と2人で朝までバーで飲み明かした。話題はもちろん「クズ男について」だ。
4.和田と野田
クズ男の和田が来た日から3日。何事もなかったようになれそめで過ごしていると予想もしていない連絡が、私のLINEに表示されていた。
和田ちゃんがなれそめに行きたいって言ってて、間に入って連絡するのめんどくさいから楓ちゃんから連絡してもらっていい?
連絡は明日香からだった。要件はわかったのだが、あの日「楓しゃん」とだけ言って眠った男がなぜなれそめにやって来たいのか、私には理解が出来なかった。営業中だったこともあり明日香に了解とだけ返事をすると「私のことは気にせずお店に引っ張っていいですよ~」と和田の連絡先が送られてきた。
クズであれど客は客だ。あやめママに事情を説明すると「よろしくね」と言ったので、早速和田に電話かけた。
「もしもし、楓です。明日香から連絡先を聞いてかけました」
「あ、どうも。」
「お店の場所分かりますか?」
「実はあの日飲みすぎてて覚えてないんです。」
今日はまだ酔っていないのか、和田は前回と打って変わって物静かな話し方で対応した。用件だけ伝え手短に電話を済ませ、お店の位置情報を共有すると数十分後に和田はなれそめにやって来た。
仕事帰りだったのかスーツ姿の和田は、あやめママと私を見るなり「この前はすいませんでした」と深々と頭を下げた。その状況があまりにも突然のことで、私もママも目を丸くしてしまった。
気まずい雰囲気を打ち消すかのように「今日の方が良い男ね」とあやめママが笑うと、和田は照れくさそうに頭をかいた。ママに案内された席に座ると和田はビールをすかさず注文し、店内をきょろきょろと見ていた。
そんな和田に「初めてじゃないのに」と茶化すよう声をかけた。コースタにグラスを置くと「初めてみたいなもんですよ」とはにかんだ後、美味しそうにビールをぐびぐびと飲んだ。
「改めまして、楓って言います。和田ちゃんフルネーム教えて」
「和田千明」
「かずあきってどんな字書くの?」
「千円の千に、明るいって字」
「ん?ちょっと待って、メモ取ってくる」
いつものようにメモを差し出すと、和田は下の名前だけを書いた。和田の字はいかにも男子の字という感じで、書き殴ったような汚ない字だった。
「ちあきって間違われること多くない?」
「そうなんすよ。よく間違えられます」
と言って和田はグラスに口をつけた。
泥酔でない時の和田は、ただただクールなイケメンという感じがした。そんな和田にいつものように普段の呼び名を聞くと「和田か和田ちゃん」だと答えた。私は勝手に「わちゃん」と呼ぶことにした。私が和田を、わちゃんと呼ぶと「なんすかそれ」と彼は笑ったが、その顔があまりにも男前すぎてついつい見とれてしまった。
私は明日香の知人としてなれそめに訪れた和田には、他の客のような接客はせず友人のように気さくに話しかけた。少しぶっきらぼうだけれど、気さくに話しかけ続けると和田は短い言葉で質問に答えた。
和田は私より2つ年下で、普段は化粧品の箱などを作る会社の営業マン。ちなみに、実家住まいらしい。なぜ実家暮らしなの?と尋ねると、5年付き合った元カノと同棲解消後、行く場所がなかったので実家に戻ったようだ。そこから毎日1時間もかけて通勤しているとのこと。趣味などは特になく、好きなものを聞くとお酒とタバコと答えた。明日香になれそめに行きたいと伝えたのも、家に帰るまでの道中に飲める所を探していたかららしい。
そんな和田が帰る頃には、私の和田への印象は「酒好きイケメン営業マン」に変わってしまっていた。
それからというもの和田は週に1度はなれそめに飲みに来るようになった。野田のように色営業をかけているわけではないが、週に2度ほど営業をかねてふざけたLINEを送ると、その日か次の日には和田は店に訪れた。
色営業のように疑似恋愛の駆け引きなどは発生せず、あくまで友達のようなフランクで楽しい接客や営業をすることを水商売では友営と呼ぶ。友営は友達営業の略で、接客や営業に恋愛的な要素がなく私は和田との関係が何よりも気が楽だと感じていた。
***
駅前の商店街に松茸が並び、渚が学校から柿や栗を嬉しそうに持って帰ってくるようになった頃。野田は私の太客になっていた。
初めて会った日から野田は定期的に店を訪れるようになり、惜しみなくお金を店に落としていた。週に1度は必ず食事に行き、一緒に店に行く。一緒に来店することで、同伴手当が給料とは別に支給されるため母子家庭の私にとって同伴は有難くて仕方なかった。
野田もまた皆勤賞の男と同じように、ばつの悪い質問をすることが多かった。休みの日に「何してるの?」と聞くことが増え、そんな質問にはいつも「娘と過ごしてる」と答えた。何度もこの返答をしていると次第に「娘ちゃんも連れて動物園に行かない?」などと言うようにもなった。
そんな時には、「娘は繊細なタイプだから誰彼無しに会わせたり出来ない」「友人以外の男性は、再婚を考えている人しか会わせないと決めている」「まだ出会ったばかりだから2人の関係を大切にしたい」と伝えるようにしていた。
色営業をかけた客が休みに会いたがるのは、自分が特別な存在か確かめるためだろう。言い換えれば、客ではない存在だとして見てくれているかの確認作業のようなものだ。店に行かないと会えないという状況は、金銭が発生するということ。金銭が発生した時点で、客としてしか見られていないとどこかで感じてしまうのだろう。
色営業は疑似恋愛。客としてしか見ていないのだから店以外で会えないなんて当たり前の話なのだが、いかに悟らせないかが勝負の肝になる。
客に疑似恋愛を悟らせないよう会えない言い訳をするのは、一般的に至難の業だ。しかし、私はシングルマザー。娘の存在を言い訳に使うと、たいがいの男は仕方ないなと休みに会うことを諦めた。だが、野田はそんな言い訳では折れなかった。
「まだお客さんやもんね、仕方ないか!」
私が会えない理由を口にする度、全てを察するように野田は笑った。経営者だからなのか水商売が何たるものかも野田はよく理解していたし、ホステスを口説くとはどういうことなのかも理解しているようだった。
水商売の女が金も使わない男を、1ミリも異性として見ないことを知っていたのだろう。
そんな野田はなれそめにとっても良い客だった。決して下品な飲み方はせず、金払いも良く新しい客をどんどん店に連れてきた。そして、店に訪れるとタイミングを見計らってあの手この手で私を口説いてきた。
「楓ちゃんに信用してもらうにはどうしたらいい?」
「楓は、ふっちのこと信用してるよ」
「どうしたら男として見てくれる?」
「男の子やな~っていつも思ってるよ」
「恋愛対象としてってことやで?」
「そんなん当たり前やんかぁ~」
毎回同じように取ってつけたようなイチャイチャした会話を繰り返し、私がどんな返答をしても野田は終始微笑んでいた。そんな野田に一度「私の何が良いの?」と本音の質問をしてしまったことがある。
すると、野田は照れくさそうに「一目見た時、天使やと思ってん」と言った。「この子に近づいちゃダメやってわかってたのに、次の週には会いたくなってお店に行ってた」と幸せそうに微笑む野田は、私から見ても純粋に恋愛をしているように見えた。なんだか申し訳ない気持ちにもなったけれど、恋愛ができた野田が羨ましいなとも感じてしまった。
元夫と別れて1年以上が経ち、客と毎日のように疑似恋愛をしてはいるけれど、プライベートでは恋が始まる兆しなど一切訪れなかった。むしろ、恋なんてしちゃいけないと思っているくらいだ。
週の大半をなれそめで過ごし、仕事の前後と休みは家事育児に追われる。24時間365日誰かしら客と連絡を取り続けるため、気が休まることもない。
そんな私の唯一の楽しみは友人とルックバックに行くことくらいで、仕事をしながら恋愛なんてしていたら生活と「山﨑楓」が破綻してしまう。
言い寄ってくれる異性はお店には居たが、なれそめに居る私は「楓」であって「山﨑楓」ではない。どれだけ気持ちを向けられたところで、異性が愛しているのは虚像の私。渚を育てるために生み出したなれそめの楓として出会ってしまったからには、山﨑楓としては異性として見れなかった。
山﨑楓として野田に出会っていたらどうなっていただろうかと考えたこともある。けれど、どれだけシミュレーションしてみても山﨑楓に野田が天使だなんて思う未来はイメージできなかった。
5.タクシー
今夜のなれそめは、カードゲームで盛り上がっていた。今日は飲みましょうよ!と和田がいつにも増して飲む気満々だったため、負ければ一気飲みをするトランプゲームを即興であみ出し、あやめママと3人でゲームを始めた。
トランプで山札を作り最初にそれぞれ7枚カードを取る。毎ターン手札の1枚を裏返しで場に出し「勝負」と言ってカードをめくる。めくったカードの数が1番小さい人が負けと言うシンプルなルールだ。
7枚のカードが手元からなくなるまで勝負は続く。毎ターンごとに勝敗がつくため負けた者はショットグラスでビールを一気する。しかし、最後のターンだけは負けるとショットグラスでなく通常のグラスで一気するため、毎戦最終ターンは妙に白熱した。
現在、5戦目の6ターン。
なぜだか分からないがあやめママはほとんど負けず、和田と私は負け続けていた。6ターン目の負けは和田。カードを開いた瞬間、和田はなんと表していいか分からないような声で叫び声をあげていた。
「わちゃん、負けすぎやって!めっちゃ酔ってるやん!」
「はぁ~楓さんビビってんすか?」
「はぁ~?ビビってないし~」
酔っぱらい2人の小競り合いにあやめママがお腹を抱えて笑っている。「和田君が来てくれると、普段はあまり見られない楓を見られるからとっても楽しいわ」と言うあやめママも和田がなれそめに来ると、毎回お腹を抱え笑うようになっていた。
ほんの数カ月で和田は、なれそめの常連客としてムードメーカー的な立ち位置を獲得し、和田が来る日は私もわくわくするようになっていた。
「7ターン!カードを置いてください!」
私の合図でカウンターの上にカードが並ぶ。
「いざ、勝負!」と和田が声を張り上げカードをめくると、あやめママのカードは「キング」和田と私のカードは「6」。
思わず私はカウンターの中で項垂れ、和田はのけぞり天を仰いでいた。
「あら、仲良しだこと」と言ったあやめママの声は震えていて、私たちが一緒に負けたことが可笑しくて仕方ないのがあふれ出てしまっていた。
和田のグラスにはビールがなみなみと注がれ、私のグラスにも焼酎の水割がなみなみと入っている。
「誰や!こんなゲーム考えたやつは!」
「楓ちゃんでーす」
和田は意義あり!と言うかのように私に指を指し、どうぞ召し上がれという時のように私に両手を広げてあやめママが言った。
「そう言って誤魔化そうとしても無理やで!」
「誤魔化してないし~!はよ、飲め!」
「和田君と楓の友情にカンパーイ」
あやめママの拍子抜けするような乾杯の音頭に合わせ、和田と私は腰に手を当て一気にお酒を飲み干した。飲み終えた後、謎に固い握手を交わした私たちを見て、今度は手を叩いてママは大笑いしていた。
5戦目の最終ターンの一気がとどめを刺したのか、和田はべろべろだった。私はほろ酔いくらいだったが「店閉めするから先に帰り」とあやめママが言うので、私は和田と店を出た。
店を出ると千鳥足のくせに「歩いて帰る!」という和田。今まで路上で寝てしまったり、起きたら財布を盗まれていた話を何度も聞いていた私は、千鳥足の和田を放置して帰るわけにはいかないと思った。
千鳥足の和田の手を無理やり引き、私はタクシーを捕まえた。「一人で帰れる!」とあまりにも抵抗するので、私が先にタクシーに乗り手を引くと観念したのか和田はタクシーに乗車した。
和田はタクシーに乗り込むと「楓さん、家絶対こっちちゃうやん…」といじけて言った。確かに家とは逆方向ではあるが、和田を家まで送ってから自宅に帰ればいい。「千鳥足の人置いて、私は帰れませーん」と言うと、突然和田は私の頭に手を伸ばし自分の方に引き寄せ、キスをした。
一瞬なにが起きたのか分からず頭が真っ白になったが、私を愛おしそうに見つめる和田と目が合い、私は自然と目をつむってしまった。
2回目のキスは、互いに食べあうような情熱的なものだった。キスを終えると、何もなかったように2人して黙りこんだ。先に声を出したのは和田で「運転手さんここで1人降ります」と言った。
タクシーを降りる際、「楓さんありがとう」と言って座席に置いていた私の左手に和田はそっと触れた。私は和田の顔がうまく見れず和田がタクシーから降りた後、顔の近くで小さく手を振った。和田が下り運転手に行き先を伝えた後は、頭の中は和田のことでいっぱいだった。
ずっと和田とは友達のように接してきたのに。私に気のある素振りなんて一切見せることなどなかったのに。和田は家まで帰る道中になれそめがあるから寄っていただけだと思っていたのに。
あの瞬間、和田は確かに愛しい目で私を見ていた。そして、和田のキスは優しかった。もしかしてずっと気付いていなかっただけ?和田はずっと私を女としてみていたのだろうか。これまでなんだかんだ長い間、水商売をしてきて自分に気のある男に気付かなかったことなどなかったのに。
和田とのことを考えている間、私はずっと手で唇を押さえていた。
タクシーでの出来事の後、和田と私の関係はすこし変わった。週2度だけしていたLINEは、1日2~3通ではあるが毎日になった。和田がなれそめに訪れると、営業後バーで2人で飲むことも増えた。
けれど、会話は今までと大して変わらず会えば冗談を言って笑い、酔っぱらってはカードゲームの時のように小競り合いをしてふざけあった。
けれど、1つだけ大きく変わったのは毎回のようにタクシーで和田を送り届けるようになったこと。タクシーに乗り込むと和田と私は何度だってキスをした。酔っぱらった和田は、時折路上でも突然私にキスをするようになっていた。色営業なのか、友営なのか、楓なのか、山﨑楓なのか私は分からないままだった。
6.誕生日
金木犀の香りが過ぎ去ると、青々としていた木々たちはこれから訪れる季節のために赤や黄色にドレスアップする。そんな季節に生まれた私を、母は「楓」と名付けた。
子供の頃は、誕生月になると「あと何日で誕生日がやってくる」と毎日のようにカレンダーをチェックしてワクワクドキドキ胸を震わせ指折り数えていた。
けれど、水商売の世界に入ってからは誕生月に入ると毎日のようにスマホの画面を睨みつけ、誰が当日来てくれるのかリストをチェックし「あと何日で誕生日がやってきてしまう」とブルブルドキドキ身体を震わせ指折り数えるようになった。
ホステスにとって年に一度の自分の誕生日は、一番売り上げが期待できる日でもあるが、自身の人気のバロメーターがまざまざと表に出てしまう日でもある。私にとって誕生日は恐怖のイベントだった。
どれだけ集客できるのか、どれだけ売り上げをあげられるのか。私は毎日のように不安と恐怖の波に飲まれて素面の状態でも吐いてしまうようになっていた。
そんな状態のまま迎えた久々の休日。私は喫茶ルックバックの机に突っ伏して終始泣き言を吐いていた。
「陽菜~私はもう死ぬかもしれん」
「楓ちゃんは、またそんな大げさなこと言ってぇ~」
おっとりとした話し方で私をなだめるのは、親友の陽菜だ。陽菜は私よりも7つ下なのだが、いつも私をお姉さんのように包み込む。
私と陽菜が出会ったのは、私が27の時だった。家事育児に追われながら生活していた当時の私の楽しみは、月に一度ライブバーに行くことだった。
ライブバーに訪れる本格的な音楽家の人たちは、楽器を演奏してオリジナルソングなどを披露していた。私はお店のマスターが「何か歌う?」と聞いてくれた時だけ既存の曲をリクエストし、マスターが弾いてくれるギターの音色に合わせてカラオケのように歌っていた。陽菜とは、その場所で出会った。
二十歳になったばかりの陽菜は、大きなアコースティックギターを背中に背負いライブバーにやって来てはまっすぐな歌詞と透き通った声でオリジナルソングを披露していた。私は陽菜の歌に、何度も泣いた。
陽菜は出会った当初私のことを「楓さん」と呼んでいた。マスターのギターに合わせ歌う私がものすごくかっこ良かったから、さん付けで呼ばずにはいられなかったと言っていたが7つも年上の女に、ちゃん付で呼ぶなんてことは出来なかったのだろう。
何もかも陽菜とは対照的で、性格も服の趣味や趣向も真反対。だけど、なぜか気があって陽菜と過ごす日々は増えていった。誰よりも私のことをよく理解し、山﨑楓という人間の心情や考え方、過去を誰よりも知っている。
「楓ちゃんはいっつも出来へんっていうけど、最後は出来たよ~って言うでしょ?だから今回も私はぜ~んぜんっ心配してないよ?」
「でも…だってな…」
「でも、だってちゃいますよ~。ほんまにそうやねんから信じてよ~」
柔らかい口調と丸みをおびた声で話すせいか、のほほんとしたように見られることの多い陽菜だが案外言っていることは辛口で厳しい。
「なーちゃん学校?」
「渚は学校やで。最近毎日のように、もみじやいちょうの葉を集めて帰ってきてんで」
「そうなん!なーちゃんに会いたいから後でお家いこかな~」
陽菜は、渚が小さい時から知っている。私が離婚などで不安定だった時期には、私に変わって渚の母親代わりのようなこともしてくれていた。
そんな陽菜のことを渚も信頼していて互いを「なーちゃん」「ひなちゃん」と呼び合っている。陽菜と渚は毎回再会すると、まるで感動的な映画のワンシーンのように熱烈なハグをし「あいしてるよ~」と言い合っているのだが、私にはどうしたらそうなるのかがさっぱり分からない。ただ本当に愛しているからなのだろうか。
さっきまで渚のこと話していた陽菜が突然話題を変えた。
「でも、楓ちゃんあんまり無理したらあかんよ」
「わかってるで…」
「またあんなことなったら、楓ちゃんもなーちゃんも辛いから」
「うん…」
「お願いやから自分を大事にしてよ」
***
陽菜と会った日からあっという間に時は流れ、気付けば誕生日の当日を迎えていた。野田が誕生日だから美味しいものをご馳走させてほしいと声をかけてくれたので、私はいつもよりも3時間早く家を出た。
誕生日の日に合わせて肌触りのいいやわらかい生地で出来た、足首まであるベージュのワンピースを新調した。普段なら絶対買わない金額をしていたけれど、誕生日の日まで頑張ってきた自分へのご褒美として奮発した。
そのワンピースを着て野田と合流すると、「楓ちゃん今日は女神様みたいやね、すごい可愛いよ」と体中がむず痒くなるようなほめ言葉を会って早々野田は言ってのけた。
野田が私を連れていったのは、ホテルのフランス料理店。男がいかにも惚れた女を連れていきそうな場所で驚きもしなかったが、「わぁ」と小声で呟き口に手をあてておいた。その様子を見て、野田が嬉しそうに微笑んでいたので、我ながら名演技だと思った。
そんな私たちを、背筋の良い澄ました表情のウエイターが「こちらへどうぞ」と席まで案内してくれた。案内されたのは、夜景が見える窓際の席だったため、またしても心の中で「いかにも!」と私は呟いた。
窓際に沿うように置かれた四角のテーブルには皴ひとつない真っ白なクロスが丁寧にかけられていた。テーブルの上にはロマンティックさを増幅させるようにキャンドルが灯され、「いくらするんだコレ!」と思ってしまうような綺麗な装飾がされた大皿の横に、大小さまざまなカトラリーたちがお行儀よく並んでいた。
店内は、終始クラシックミュージックが流れ「誰か Romantic 止めて Romantic」と歌いだしてやりたい心理状態だった。野田のことだからこんなことだろうと思っていたが、「プロポーズでもする気か!」とつっこんでしまいそうな気持ちを抑え、膝に手を置きじっとその状況に耐えていた。
席に座ると、野田はすっと手をあげシャンパンを頼んだ。私は大人の男の余裕を醸し出し続ける野田を見て、決して笑ってはいけないと自分の手をつねっていた。昔から何かと察しが良く絵にかいたような状況に身を置いてしまうと、頭の中でツッコミとボケがひたすら発動し抑えられなくなってしまう私にとって、この状況は過酷でしかなかった。
「楓ちゃんお誕生日おめでとう」
「ありがとう。めっちゃ嬉しい」
「良かった。喜んでくれて」
「こんな素敵なとこやと思ってなかったからびっくりしたわぁ」
平然と嘘を言ってのける私に気付いていないのか野田は優しい眼差しを向け、終始微笑んでいた。その後も、私の予想通りに状況は展開し続けた。
コース料理は、食前酒、アミューズ、オードブル、スープ、パン、魚料理、口直しの氷菓、肉料理の順に私の目の前に現れ、最後には素敵な演奏と共に誕生日ケーキが登場した。私は料理が出てくるたびにオーバーに驚き、一口含むと野田の目を見て「おいひぃ」と伝えた。どの料理も確かに美味しいし美しい。出来ることなら無言で、料理に全集中して味わいたかったが、なれそめの楓はそんなことは絶対にしない。するとしたら、時折野田の目をうっとりとした表情で見つめるくらいのものだ。
食事を終え、野田と私を乗せたタクシーがなれそめの前に着いたのは出勤時間の10分前だった。店に着くと、店内はピンクのバラの花がたくさん飾られていた。私が普段から「好きな花はピンクのバラ」と言っていたせいか、お客様からのお花が届いていたようだ。その中でひときわ目をひく大きなピンクのバラの花かごあった。それに目をやると「俺から」と野田が言った。
でしょうねと思ったが、「嬉しい~」と私は花かごを抱きしめた。
ピンクのバラが好きなのは「楓」であって、山﨑楓が一番好きな花は紫陽花。そのことを、あやめママを含め誰ひとり知らなかった。
そこからぽつりぽつりとお客様が来店し、一時間もしないうちに満席になった。誕生日ということもあり、普段はあまり顔を合わせないスタッフも出勤していてくれて、いつもに増してなれそめは華やかで賑やかだった。
その日、野田は何本もシャンパンを開けた。その度にオーバーに喜び「嬉しい~シャンパン大好き~」と叫んでいたが、本当は私がこの世で一番嫌いな酒だ。何が美味しいのかさっぱり分からない。だが、単価を考えると嫌いなんて言葉は口が裂けても言えないし、好きだと言うと客は私を喜ばそうと注文してくれる。楓はシャンパンが好きでなくてはいけないんだ。口に含む度にマズ過ぎて胃液があがってこようとするのを必死に耐えながら、私は何杯もシャンパンを流し込んではトイレに行く度吐いていた。
店内の雰囲気が少し落ち着いてきた頃に、スーツ姿の和田が店に現れた。仕事終わりに来てくれたのだろう。
「わちゃーん、いらっしゃーい」
私は来店してきた和田に抱き着いた。和田が来たときには既に私は酔っぱらっていて、野田が居るのを忘れて思わず抱き着いてしまった。
「めっちゃ酔っぱらってるやん!」
「だって、ずぅーと飲んでるもん」
「いけるん?」
「うん!あ、見て!」
私は大きなピンクのバラの花かご指を差し「めっちゃ綺麗やろ~貰って~ん」と和田に野田からの贈り物を自慢した。和田は「良かったやん」とだけ言った。
和田が来店した時に店に残っていたのは、野田と皆勤賞男。野田は財力を最大限使い、何本ものシャンパンで周りにマウントを取っていた。その様子を見た和田が「俺も抜こか?」と聞いてきたが、和田は普通のサラリーマン。1本数万もするシャンパンを抜けばその後どんな生活を送るのかが目に見えて分かっていた私は「わちゃん私はビールが飲みたい」と叫んだ。
「楓ビール好きやもんねぇ」
あやめママがすかさずフォローに入り、和田はビールを数本私のために抜いてくれた。野田は何かを勘づいたようでその後から和田に話しかけ続けた。
「和田君、どこ住んでるん?」から始まり、何の仕事をしているのか、いつからなれそめに来るようになったのか、好きなタイプや彼女の有無。根掘り葉掘り和田に聞き続けた。好きなタイプの話の時なんて、先手を打つかのように野田は「俺、楓ちゃん」と言った。あからさまなマウントにカウンターの中にいた女性陣は引いてしまっていたのだけれど、シャンパンを何本も飲んでいた野田はそのことには気づいていないようだった。
誰が見てもあからさまなマウント攻撃に和田は終始爽やかに対応していた。普段はクールでぶっきらぼうな和田が、営業マンなのだとまざまざと感じた。
今まで見たことのない野田の一面を知り、まるで弱い者いじめをするいじめっ子のように見えて私は心から軽蔑してしまった。一方的な野田のマウント攻撃は、私に冷静さを取り戻させ気付けば酔いが覚めていた。
「楓ちゃんのお誕生日だから皆で飲みに行きましょうよ!」
野田がそう声を張り上げた。閉店時間はとうに過ぎていて1時間以上前にスタッフの女の子たちは退店していた。店に残っていたのは野田、皆勤賞男、和田とあやめママ。
「そうね!みんなで行きましょう!」
あやめママがそう声をあげた。その後、すかさず「でもお片付けがあるから男性陣だけで先に行っておいてくれる?」と野田の方を見て微笑んで言った。
その後すぐ男性陣は、バーに向かって肩を組んで歩いて行った。その後ろ姿を眺めていたのだが、一番小柄な和田が2人に挟まれていて、まるで「囚われの宇宙人」のようでニヤけてしまった。
7.不器用な男
男性陣が店を出た後、あやめママと片付けを始めた。私が洗い場でいくつものグラスを必死で洗っていると、店内を隅々まで見渡していたママが突然「あ!」と声をあげた。あまりに突然のことで私まで「うわっ!」と野太い声をあげてしまった。
「ママなんですかー。びっくりするじゃないですか」
私が笑いながらそう言うと、あやめママはカウンターの下からクラフト紙の紙袋を、私に見えるように自身の顔の横まで持ち上げた。紙袋なのは分かったが見覚えがなく私は首を傾げた。
「やっちゃった。来てくれた時になんか持ってるなって思ったのに」とママはおでこに手を当てなにかを後悔しているように見えたが、その時もなんのことを言っているのかさっぱり分からなかった。
「え、なんですか?」と間の抜けたような声で聞いてしまった。
「たぶん和田君やと思う」あやめママは口をとがらせて言った。
私は洗い物をひとまず中断し、ワンピースで手を拭いてあやめママに駆け寄り紙袋を覗き込んだ。そこには、男の人の手のひらに収まるくらいの大きさの透明の箱に入ったピンクのバラのブリザードフラワーが入っていた。小さなピンクのバラの横には、親指程の大きさのテディーベアがお花に寄り添うように座っていた。
和田はどうして言ってくれなかったのだろう。手渡してくれたら飛んで跳ねて喜んだのに。なんで直接渡してくれなかったのだろう。そんなことを考えていると、
「ねぇ楓、いじらしいなぁ。」
あやめママは私の目を見て、何かを全て察したようにそう呟いた。その言葉を聞いて、私の胸はぎゅっと苦しくなった。
「きっと、よう渡さんかったんやろね」
あやめママの言う通りかもしれない。
私が和田だったら…今日が誕生日だと知っていて朝から仕事をしなくちゃいけない状況だったら少しでも早く終わらせようといつもより一生懸命働くだろう。
プレゼントを用意しなきゃと仕事終わりに花屋に駆け込んで、喜んでほしいから好みの花を探すだろう。
少しでも早くお祝いするために、速足で店まで急ぐだろう。その時、喜んでくれるかな?と笑顔を想像しながら胸を踊らしているだろう。
お祝いしようと胸を踊らせ店に訪れると、たくさんのピンクのバラのある店内を見て自分の選択を誤ったと落胆してしまうだろう。
そんな時に、一番大きなピンクのバラの花かごを嬉しいと喜ばれたら、自分のプレゼントを見せることすら恥ずかしくなってしまうだろう。
シャンパンを降ろす度に「嬉しい、シャンパン大好き」なんて言葉を聞いたら無理をしてでも入れてあげたいと思うだろう。
そんな中で「抜こか?」と声をかけることさえ勇気を振り絞るだろう。ビールでいいと言われた時には、遠慮されたと気付いてしまうだろう。
そこから何時間も自分よりも稼いでいるであろう同性から根掘り葉掘り質問攻めにあいマウントを取られ続けたら…自分がいかに惨めで、自分には人を喜ばせる力がないと思い全てを諦めてしまうかもしれない。
それでも喜ばせたいと花を粗末になんて出来なくて、自分だと気付いてもらえなくても良いからと思ってそっと置いていくだろう。
和田の気持ちを想像してみたら、胸が張り裂けてしまいそうな程切なくて痛かった。想像した場所がなれそめでなく家だったとしたら私はきっと涙を流してしまっていただろう。
「楓、急ごう。早く和田君のところに行かなきゃね」
そう言ったあやめママの目は今にも泣きだしそうなほどに潤んでいた。
***
バーに到着すると、ソファー席で男性陣は盛り上がっていた。和田の横には皆勤賞男が座り、その向かいに野田が1人座っていた。私の顔を見るや否や、野田と皆勤賞男は満面の笑みを向けたが、和田は目も合わさず「お疲れ~」とだけ言った。
野田は隣に座ってほしそうに私を見ながら開いている場所をぽんぽんと叩いていたが、あやめママがすかさずその場所に座りバーの店員に「もうひとつ椅子を頂戴」と声をかけた。私はその様子を見て、「お誕生日席ってことですね」とお道化てみせた。
私たちが合流した後、バーでも野田はことあるごとにマウントを取り、皆勤賞男は意気消沈しソファーで眠り始めた。和田は野田のマウントに動じる様子もなく「すごいですね」と言う言葉を繰り返していた。あやめママもそんな状態の場の空気を読み、時折野田の言葉を遮るように自分の話をしていた。
私はというと、和田が置いていった紙袋のことが頭から離れず、いつ和田にお礼を言おうかずっとタイミングを窺っていた。そんな様子を察したのか、あやめママが突然「野田君、私を家まで送って」と野田に微笑んだ。
野田は一瞬私の顔を見て「楓ちゃんは…」と言ったが、あやめママは「野田君は今日楓とおでかけしたでしょ?」と人差し指で野田の胸をちゅんっと突いた。あやめママは、その後すぐにバーの店員に「タクシーを呼んでください」と言って、数分後には野田の手を引きタクシーに乗り込もうとしていた。2人を見送るために後ろからついていっていた私に気付いたのか、野田は何度も振り返り苦笑いを見せながら口パクで「たすけて」と言っていたが、私は気付かないフリをして何度も首を傾げた。
「ふっち、今日はほんまありがとう」
「こちらこそ!楓ちゃんまた連絡するね」
「楓~ほんとお誕生日おめでとう~」
あやめママはそう言って野田をタクシーに引き込むと、野田に気付かれないように私はウインクをした。扉が閉まり走り出したタクシーが見えなくなるまで私は頭を下げた。振り返るとそこには、私の荷物を持った和田が立っていた。眠ったままの皆勤賞男を置いて来たようだった。
「帰ろう」
和田はぶっきらぼうに言った。
「わちゃん今日忘れすぎな!」
「え、何を?」
「めっちゃしらばっくれるやん」
私の言葉に悪戯な笑みを浮かべ「フッ」と鼻で笑った後、和田は私の荷物を持ったまま歩き始めた。まだ真っ暗な街の中で、街灯の光だけが道を照らしていた。颯爽と歩き出した和田の背中は、なぜだか大きく見えて私は駆け寄って抱き着いた。
「歩きづらいわ」
そう言った和田はどこか嬉しそうだった。「なんやねん」とふてくされた私の声を聞いて「ははは」と笑っている和田は、私のよく知る和田だった。
私の家の前まで和田は送り届けてくれたのだが、帰りたい気持ちにならなくて私は何も言わずにタバコに火をつけた。すると、和田も何も言わずタバコに火をつけ自宅マンション横にある自販機の横に膝を曲げてお尻が床につかないように大通りを見つめて座った。少しの隙間しかなかった和田の左側に私が何も言わず同じように座ると、一瞬だけ私の顔を見て和田はまた鼻で笑った。
「わちゃん…」
「ん?」
「私おめでとうって言われてない…」
大通りを見つめたまま私が呟くと「12時過ぎてもうたしな」とだけ和田も大通りを見つめ呟いた。私が目も合わせないまま右手の裏で和田をはたくと今度は「フフフ」と鼻で笑って「おめでとう、楓さん」と言った。
「なんでプレゼント渡してくれんかったん?」
恨めしそうな声で私が言うと、「んー」と言ったまま和田は黙った。
「嬉しいのに…あほ…」
私がそう言うと和田は突然、私の方を向いて抱きしめた。誰かに見られてしまうかもしれないと思った私が「ここ大通りやって…」と呟くと和田は一瞬立ち上がり私の前に座り込み、また抱きしめた。
痛みを感じるほどきつくぎゅっと抱きしめるだけの和田は、ずっと黙ったままで、私が「痛いよぉ…」と言っても「んっ」とだけ返事をして抱きしめることをやめなかった。
体の痛みを強く感じる度に、和田がどれだけ自分を想ってくれているのかを感じた。和田は、私のことが好きなんだ。私が和田の腕の中で「私は…」と自分の想いを問おうとした時、和田は腕を私の首に回し、目をじっと見つめていた。「なにっ?!」と私が呟くと、和田はまた「フッ」と鼻で笑って私にキスをした。
32歳の初めての唇は、誰よりも不器用な男だった。
<続き>