『iー新聞記者ドキュメント』 森達也監督作品ー最後の言葉は「わたし」だったー

劇映画『新聞記者』の原作ーモデルとされた望月衣塑子(東京新聞社会部)記者を追うドキュメントは、一人の女がひたすら歩き、ひたすら誰かを追いかけ、ひたすら問題を問いかけ、ひたすらに言葉を発し続ける様が、映し出される。

ノーナレーションで説明する言葉は、最小限に留められている。ドキュメント映画として珍しいのは、望月記者を撮影する森達也監督もまたスタッフによって撮影され続けているところかもしれない。

望月記者は、辺野古の基地問題を、伊藤沙織さんが被った性被害と加害者の逮捕取り消し問題を、官邸の記者会見で菅官房長官を、追いかけ続けるが、その様子を撮る森監督は、希望する撮影を阻害され続ける。

官邸前では、普通に通行人が歩いているにもかかわらず森達也と望月記者は足止めさせられる。丁寧な言葉づかいの警察官は、しかし決して森の質問に答えない。

「なぜ通れないのですか」

「なぜ撮影できないのですか」

「公道ですよね」

「申し訳ないですけど」

曖昧に決定的な言葉で答えないのが、決まりのようだった。

それは官邸記者会見の菅官房長官も同じことで、望月記者の質問に対して、一切具体的には答えない。

観ている方はイライラする。何のための記者会見なのか。

政治部の記者クラブとは一体何のためにある組織なのか。

望月記者の質問に、全ての男たちは(全員男だ)申し合わせたように、はっきり答えない。

曖昧に、適当に。仕方なく。

日本語の特徴を最大限に生かした、彼らの話法に、いつも主語はない。

映画が進むうちに、彼らは、一体誰なのか、わからなくなる。

突進し続ける望月記者の問いかけが、必ずしも効果的であるのかどうかは、わからない面もある。だが突進したい気持ちは、取材し続ける過程で積み重なることはよくわかるように伝わる。

誰も答えない、はっきり言葉にしない、ただ曖昧に。しかし明白に間違ったことが行われているのに! 答えろ!答えなさいよ!

わたしは、聞いてきた。見てきた。現場の状況を、当事者の声を。

それに対してあなたたちがしてきたことは、どうであるのか。

今、あなたは、どう考えているのか。

答えて欲しい。そこから真実であろうことを人々に知らせるのが、新聞記者の仕事なのだから。

はっきりとした目的意識と、それを達成しようとする意志を持った人間と。何のために働いているのかも判然としない、もやもやっとした「顔なし」男たちの対決を。延々と見せられる観客は、果たしてどちらに感情移入するのだろうか。

(わたしは、どちらにもできなかった。どちらもが存在する、そのー世界の様子ーを前に、愕然とというか胸苦しさとイライラを募らせるような、何とも知れない気持ちのままだった。)

劇映画の『新聞記者』は、主人公ーエリカの執念の根拠として権力に抹殺された父の死を背景に、個人的な恨みのようなものを感情的に表現し、観客を納得させようとしていた。そこに、いささかの臭みを感じていたのだけれど。

『i新聞記者ドキュメンタリ』には、そのような浪花節的なものは一切差し込まれていない。むしろあっけらかんとしすぎる望月衣塑子は、突進し続け、追いかける森達也は、途方にくれて「権力」に、立ち止まらされ続ける。

彼は撮りたいものを自由に撮ることができないのだ。官邸記者クラブに入ることもできない。理由は告げられない。手続きや資格や条件が合わないとか、そういった「中身のない」ことによって。

ここでも観る者は、いったい自分は何を見させられているのか、わからなくなる。

映画は何も答えない。


『新聞記者』ー感想文のラストに、わたしは、こう書いていた。

ー彼女は、吉岡エリカは、全き女ーわたしーとして、忽然と立ち尽くしている。

日本の映画が、そのようにしてー女ーを描いたことが、あったのか。


『i新聞記者ドキュメンタリ』のラストには、森達也監督の言葉から、一人でカメラの前に立つ、望月衣塑子が映し出される。

i -わたしー

ーわたしーとして、世界に向かって立ち歩く。

それが、どうして女であるのか。たまたま?

考えようとするのも、また、わたしだ。























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