『止めたバットでツーベース』村瀬秀信著(双葉社刊) 男たちは、野球を生きるーわたしたちは? 真面目な書評風ーその2
ファイターズファンを泣かせる。ヤクルト芸術家
『止めたバットでツーベース』 本作に描かれた18本の逸話に登場する人々は、さすらいの野球文士近藤唯之がそうであるように、誰もが知っているプロ野球界の中心にいるような選手や人物ではない。
長島茂雄や王貞治、今なら大谷翔平が、キラキラとライトアップされたメーンストリートに立っているビルヂングだとしたら、その道の端の横道の小路に、そっと佇んでいる小さな家のような立ち位置だ(どんな例えだ?)
でも、世界はメーンストリートだけでは成り立たない。ていうかメーンストリートは、サイドやアウトがなければ、存在しないものではないか。
目立たない小径の小さな家は、気がついてみれば、玄関には綺麗な花が咲いていたりするし、意外とおしゃれなリノベーションがされていたりもする。さらに首を突っ込んで見てみれば、見たこともないような、変なものがぶらさがっていることもある。
いや、変だって変な意味じゃないんだけど。
それにしたって常軌を逸しているよな・・・このお話は。
第6章 ヤクルト芸術家 ながさわたかひろ
画家で銅版画家ーながさわたかひろ氏。不勉強で本書を読むまで全く存じ上げなかった。2009年には東北楽天イーグルスの全試合を作品に仕上げ、大きな評価を得たのち、翌2010年に東京ヤクルトスワローズに”移籍”。
自称スワローズ10人目の「選手」として、シーズン中の全試合を絵に描き続け、球団に届け続けるという異業…間違えた偉業を成し遂げる、芸術家の歩みは、なんと2015年のヤクルト優勝まで6年間も続く。ろくねんかん。その間彼は仕事もろくにしていない。貧乏のどん底近くを彷徨いながら・・。
ヤクルトファンでノンフィクション作家の長谷川晶一さんが、このヤクルト芸術家の章を「大河ドラマ」と言っておられたが、まったくもってその通り。よくぞ作者も最後まで付き合ったもんだよな・・って感心してしまった。
とまるでアホにしているみたいだが、違うんだよ。わたしは、泣きました。ファイターズファンのわたしが、札幌でレジの仕事を終えた午後2時過ぎ「レトロ風喫茶ちゃっかる」のお気に入りの端っこの席で、エビドリア・サラダつき・コーヒーset950円税込を頼み。この章を読みながら、最初は笑い声を堪え、やがて涙が溢れ出す。困ったよ。こっぱずかしい、これじゃあ、あたしが変なおばさんだよ。と思いながら。
なぜそこまでやるんだ。ながさわたかひろ(敬称略)
なぜそこまで描きたいんだ、ヤクルトスワローズを。
なぜヤクルト球団は、この常軌を逸したファンという名の人物を受け入れ続けたのか。
ながさわたかひろ。一人のヤクルト絵に命を賭けた男の所業で偉業は、おそらくは東京ヤクルトスワローズという、プロ野球12球団でも際立ったファミリー球団でなければ達成されることはなかったのではないだろうか。
わたしを泣かせたもの、一言で表せば、それは「愛」だ。
なりふり構わぬ愛。
無視されても、喜ばれているのか嫌われているのかわからなくても、ひたすら想い続ける愛。
その滅多矢鱈で無闇な愛を突きつけられ、無体に振り切ることもできない、ヤクルト球団の人々。
球場から待ち受ける道で「サインください!」とすがられ、じゃけんにすることもなく、差し出された本に「感謝」としたためる、小川淳司監督。
いったいそれは、愛と呼ばずに何と呼べばいいというのか。
この暗澹たる世界に、真実の愛など、どこにもあるはずがない、としか思えないのに。信ずるに値する何事かはある(のかもしれない)。
図らずも、そんな感動を与えてくれた。ヤクルト芸術家、なのだった。
「私小説」の話に、一向に落ちていかないが、大丈夫。必ず。
その3 につづく