さようなら。ファイターズと札幌ドームへ。長い長い思い出話をしてみようーその1
2007年、春。初めて札幌ドームへファイターズの試合を見に行った我が家の長女は「久の17球」(注1)に遭遇する。すっかり野球観戦に夢中となる高校2年生だった。
その前年、2006年の日本シリーズを地上波テレビで見ていた。若い頃は、プロ野球が大好きだったが、北海道にファイターズが移転して来た頃は、ほとんど関心はなかった。でも、さすがに大きな話題となり、新庄フィーバーで超盛り上がっているファイターズを見てみようと思ったのだろう(記憶が曖昧)
25年ぶりのリーグ優勝、そして「球団初の日本シリーズ制覇!」は素晴らしかった。感動し、ファイターズのファンになりました!
と言いたいところだけれど、実際は違う。たまたま翌年にJ-comを契約したら、プロ野球全試合が見られるようになった。中でもファイターズは、GAORAで独占中継してて、オープン戦から見ているうちにハマってしまったのだった。
当時のファイターズの主力メンバーは、1番森本稀哲、2番田中賢介 3番稲葉篤紀 4番セギノール 他、9番はショートの金子誠。サードは木本邦之や栄ちゃん(小谷野栄一)かゆうじさん(飯山裕志)キャッチャーは鶴ちゃん(鶴岡慎也)か信ちゃん(高橋信二)か中嶋(聡)さん。DHに幸雄ちゃん(田中幸雄)代打に小田さん(小田智之)坪井智哉、代走にコンタコンタ(紺田敏正)…
エースは、金村暁からダルビッシュ有に移ろうとし、抑えにマイケル中村、セットアッパー武田久、2年目で先発に転向した武田勝がいた。
日本シリーズの時は未だ、ピンと来ていなかった。テレビで毎日見るようになった「ファイターズ」は、中学生の時から知っている「日ハム」(大沢監督の時のリーグ優勝はちゃんとテレビで見ていた。古屋選手や高橋直樹投手が好きだった。幸雄ちゃんは若かった。)とは、全く違う。
いや、というよりも、北海道日本ハムファイターズがおりなす野球は、自分の知ってる「プロ野球」とは、全然違っていたのだった。
昭和のプロ野球は、薄暗い照明の下、タバコの煙とビールの匂い、赤ら顔の男たちが罵声をあげ、時にはグランドになだれこみ殴り合いだってやってまう完全なる「おっさんの娯楽」であり、90年代に入って「新人類」と呼ばれた、工藤公康や渡辺久信などがいた西武ライオンズが新風を起こし、さらには、半パンにピンクのパーカー&キャップ後ろ被りスタイルでバラエティー番組に出た「イチロー」(鈴木一郎)の出現によって、よっぽど空気が変わったとはいえ。1991年に設立されたサッカーJリーグに主たるプロスポーツの座を奪われる危機に直面するようにして、つまり「ダサいおじさん文化」のイメージのまま、あった。
のだったが、2007年のテレビに映る「ファイターズ」は、その、わたしの中にあった先入観、固定観念をぶち破る。何しろユニフォームが違う!
カッコいい!のだ。
カッコいいんですよ?あの「日ハム」のユニフォームが?
今は画像の仕様にうるさいから使えないけど。青い縞々パジャマ柄にマルnnのマーク。目に眩しい腹巻きデザインのオレンジ色ユニフォーム。ある意味間違いなかったが「おしゃれ」とか「かっこいい!」とは、遠く縁のないものであった…はずなのに。
左右非対称のデザイン、黒とグレーのシンプルな色使い。「エンブレム」と呼んで差し支えない球団マークと堂々たる胸のチーム名「fighters」
いったいどうしちゃったの? こんなの「日ハム」じゃないじゃん?
そう、社運を賭けた一大プロジェクト、東京日本ハムファイターズから、北海道日本ハムファイターズへの転換は、「日ハム」から「ファイターズ」への転換でもあったのだ。北海道で生まれた新規のファンは、「日ハム」と呼ばない。「ファイターズ」と呼ぶのである。
そうして、わたしは、試合を毎回録画して最低二回は見る(ビデオテープだった)過去の球団DVDも買い漁り何度も見る、関連記事や雑誌もじゃんじゃん集める、そこらへんは鍛えられたオタク魂で、あっという間に「にわかファイターズファン」と化していった。娘たちも一緒に楽しむようになり、冒頭に戻る。
お姉ちゃんに先を越されて「久の17球」の話を聞くだけで、もはや満足できるわけがない。わたしも観に行きたい!札幌ドームへ行ってみたい!
長くなるので、続く。
注1 「久の17球」2007年5月6日、オリックス戦。先発金村暁。9回、1対0とリードしながらもノーアウト満塁。クローザーマイケル中村が作ったピンチを武田久が抑え切った伝説の一戦。わたしはラジオで聴いてて心臓止まりそうだった。武田久がクローザーの道を開いていく契機となったゲームだったと思う。
(トップの写真は、2017年ファイターズ公式HPから拝借しました。もう絶対ないメンバー😀)