センチメンタルな日曜日ーサンデープロミスに出かけてみたー和田珈琲店とバナナボートと。
岡本仁さんによるー架空のラジオ番組ーサンデープロミス。
この度のテーマは、かつて70年代の後半から80年代初めに札幌にあった和田珈琲店を起点に、岡本さんが自らの音楽史をラジオDJ風に振り返っていく趣向。お相手は、今も狸小路で中古レコード店を営む清水篤さん。
たまたま会場が、わたしが働くスーパーにお買い物に来てくれるご夫妻のお店で、たまたま昔々和田珈琲店の後に和田さんが始めたバナナボートでバイトしていたことを話していて、お声がかかった。
当日、珈琲を出す係りも昔なじみの石田くん(石田珈琲店)とのことで軽い気持ちで「行きますよ!」と言ってみたけれど。和田珈琲店の常連だったという岡本さんのことは記憶になく、調べてみたら大変な実績のある方じゃないですか・・。緊張するなあ。どうしようかなあ・・と迷った末にやっぱりせっかくの機会だからと出かけて行った。
最初にかかった曲は、和田さんがベースを弾いていた「はちみつぱい」のたった一枚のアルバム『センチメンタル通り』から「土手の向こうに」。
和田珈琲店には行ったことはなかったけれど、この曲は、バナナボートでもかかっていた。懐かしくて涙でそう・・・。その後も70年代のロックやカントリーブラジル音楽、ニューヨークサルサとよくかかってた曲が、続く。
どんどん記憶が巻き戻っていく渦の中で、ぐるぐる回りだした。
バナナボートに初めていった18、9の頃は、パンクやニューウエーブと言われた音楽が好きだった。だからといって特に音楽好きというわけでもなくて感化されていたのは、いわゆる80年代サブカルチャー。マンガ、映画、アニメ、「ビックリハウス」や「宝島」の熱心な読者で、その中に音楽もあったような感じ。
「80年革命」という言葉もあったくらいで、サブカルチャーが権威的なメインカルチャーをぶっ飛ばす!という潮流があった。その真っ只中、なんの才能も人間的魅力もあるわけでもないのに、「あたしにも何かできるんじゃないか」と勝手に思い込んでいた。
札幌に出てきて札幌のカルチャーシーン、ロックシーンに詳しい友達に出会いいろんな場所に連れていってもらった。
「バナナボートに行こう!かっこいいんだよ!和田さん💓」
未だ18歳。音楽好きの彼女にとっては、和田さんはかっこいい大人だったのだろう。(深い意味はありません)
その後、バナナボートに入り浸るようになり、なぜか彼女もわたしもウエイトレスのバイトをするようになった。(友達は人気者だったが、わたしは挙動不審のデブでオタクの女の子。お店の最末期で、和田さんももうどうでもよくなってたんです。いや面と向かってそう言われたから😅)
その間に、自分でもバンドをやったり札幌のサブカルシーンを自ら取材したミニコミを作ったり、駅裏8号倉庫でライブを企画したり、いろいろ活動していた。今から思えば大変活発な女の子だったみたいだね・・。
そのストレートに表現すれば、青春時代のすべての記憶に、バナナボートはつながっている。和田珈琲店が、岡本さんや篤さんの音楽愛を育み、若い時代の居場所であったように。
「篤くんはパンクは聴いていたの?」
岡本さんが、最後に篤さんに質問した。
「いや聞いてなかったよ」
和田珈琲店が開店したのは1976年だったそうだ。イギリスでセックス・ピストルズがデビューしたのは75年。わたしがはじめてまともにジョン・ライドンの声を聞いたのは、多分81年。PILに夢中だった。東京ストリートロッカーズ。フリクションが大好きだった!フューのアントサリーにものすごく影響され自分の曲も作り始めた。
バナナボートでも時代の音楽はかかっていたし、自分の好きなレコードもかけさせてくれた。でも和田さんたち、音楽好きなおじさん達とのギャップーというより断絶を、当時から感じていた。
何を話しても、こちらが子どもだから優しく相手にしてくれるけれど、決して本気では取り合ってくれてない。今となってはそれが当然とつくづくと思えるにしても。もどかしくて仕方なかった、あの時の気持ち。
篤さんの一言で、すーっと道が開けていった。
「聞いてなかった。」 そりゃそうだよ。
すべての道筋には、それぞれの積み重ねー歴史がある。同じ時代、同じ場所に、様々な積み重ねとそれぞれの時間がある。音楽という焦点で見えてくる。パノラマのような映像。
そうやって、みんな生きていたんだと。
帰り道の狸小路を歩きながら。切なくなってこっそり泣いてしまった。
札幌に出てきて39年(え〜〜???)ただただ生きてきたんだなって…。
岡本仁さん、篤さん、grisの皆さん、石田くん。和田さん。
素敵なひとときをありがとうございました。感謝します。
「音楽は世界を運んでくる」橋本治さんの言葉です。