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物を書くっていったいぜんたい、なぜなの? その3ーはじまりはどこからー子供には大事なものを守りたい気持ちがあったー


言いたいことがあるーその気持ちはどっからくるのか。

例えば、わたしが、マンガを語ろうとする気持ちの根底には、家庭での「マンガ禁止」と母との戦いがあった。

かつては家庭でマンガを「低俗だ」「教育に悪い」と読ませない親は、けっこういた。戦後マンガが勃興する1950年代~70年代にかけては「悪書追放運動」ってのがあって、全国のPTA組織や母親団体が相当強力な動員をかけていた。「マンガの神様」と呼ばれる手塚治虫ですら、その最初の弾圧対象となり、校庭に集められ燃やされるーまさに焚書扱いだったんですよ。西部劇スタイルの女の子が足を出し、キスをするシーンがあることがハレンチ極まりないとかいう罪状で…。

若い頃は小学校の教員で、結婚して北海道に来てからも学童保育の指導員を務め、地域活動、新婦人の会の活動も熱心だった母は、娘たちにマンガを禁じていた。読書には、もちろんのように大変に熱心で本なら何でも買ってくれたが、マンガは絶対ダメだった。

人間の性として禁じられると余計に知りたくなる。ましてやマンガは周りの子どもたち友達、みんなが読んでいるのに。なんでわたしだけダメなの? 

母が指導員をしていた小学校の学童保育「なかよしクラブ」でもマンガを読んでる子はいた。あまりにも興味がありすぎた小学3年生のわたしは、その子の後ろや周りをうろつきマンガ本を伺うようにして覗き見した(「見せて」と隣にはいけない。母が見ているから!)忘れもしない「週刊少女フレンド」のページは、楳図かずお先生の『まだらの少女』であった…(いや「赤ん坊少女タマミ」だったかもしんないけど)ものすごい怖そう…いや怖い…のぞき見してるだけだけに、さらに恐怖感が倍増…以来大人になるまで楳図先生の恐怖マンガは読めなかった…

チラ見しかできない。情報が少ない。しかし興味があるー状態になると好奇心は膨らみ、そもそも想像力のたくましい空想癖のある子どもの中で「マンガを読んでみたい」「あんなにみんなが面白がっているものを知りたい!」欲望は、どんどん膨らむ一方だった。

学童保育は、低学年までしか通えず、4年生になると放課後は一人で家に帰ることになる(妹は学童に行っていた)「鍵っ子なんてかわいそうにねえ」と言われる時代。全然全く悲しくも寂しくもなかった。あの母の監視の目からついに離れる時がきたのだ!鍵っ子になり、何かの時のためにと小遣いまでもらえるようになったし!(それまでは現金も使用禁止だった)

小学4年生のわたしは、心に決めていた。学童に行かず、一人で家に帰る。お小遣いも持っている。今しかない。自分でマンガを買える時は、今しかないんだ。欲しかったのは、学校の友達が読んでいる「なかよし」だった。「なかよし」を絶対に買ってくるぞ!

本当に今でも、鮮やかに昨日のことみたいに思い出すことができる。200円くらいが入ったお財布を握りしめ、わたしは走った。いつも文房具や雑貨などを買う近所の藤田商店へ。昔の田舎の雑貨商店では、雑誌やマンガ本も置いてあった。

はあはあ息をついて店に入り、マンガ雑誌の前に突進する。でもでも、そこには「なかよし」はなかった…。「なかよし」なんでないんだよ…一大決心をして買いにきたのに。お母さんに見つかったら怒られるのに😭(あの頃、絵文字があったらほんとにこういう気持ちだよ)

ぼんやりと立ち尽くすわたしの前に藤田のおじさんが出てきた。

「いらっしゃい、どうしたの?」

「なかよしは、ないんですか?」

「売り切れちゃってるね」

どうしてもどうしてもマンガを読んでみたかった。

「あ、あの、わたしくらいの女の子が読むマンガはどれですか?」

「そうだねえ。この辺りのかなあ」

おじさんが、示す平積みに並べてあったマンガ雑誌は、「少女フレンド」「マーガレット」「少女コミック」などだった。母に黙ってマンガを買いに来た緊張感と罪悪感で胸はドキドキしっぱなし。焦っている。もうどれでもいい。一番薄い、当時の値段で90円。「週刊少女コミック」を選んだ。

初めて手にしたマンガ雑誌をバレないように服の中に隠して、また走って帰った。誰もいない家に。胸をドキドキドキドキさせて。

わたしの人生において、もしも神の采配があったとしたら、この時だけだと思う。「なかよし」ではなく「週刊少女コミック」であったこと。その時1972年ー「少女マンガ革命」と「花の24年組」と呼ばれた少女マンガ家たちの代表格。萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子ーこの3人のマンガ家に出会う契機となった。その全くの偶然が、子どもの「わたしの世界」を大きく変えてしまうことになるのだから。

「週刊少女コミック」は、満々だったわたしの期待よりもさらにずっと面白かった。始めに好きになったのは、北島陽子先生と上原きみ子先生だった。毎日上原先生のマネをして絵を描いた。『ロリイの青春』という乗馬のマンガが大好きだった。当時はよくあった雑誌の中のマンガ家同士のおしゃべりコーナーのようなインタビューで竹宮恵子先生が「馬を描けるようになればマンガ家になれる!」と話していたのを読んで、ロリイが乗る馬ハッピーをマネしまくった(48年たった今でも描けます😀)

マンガの絵を描けば、友達も喜ぶ。毎日が楽しくバラ色だった。そんなある日、「週刊少女コミック」だけでは飽き足らず、月刊誌の「別冊少女コミック」を買ってみた。友達と一緒に読む約束でもしていたのかもしれない。教室で開いた。

その瞬間の映像もまた、脳裏から消えることはない。『ポーの一族』ー小鳥の巣ーの見開きページ。エドガーとアラン。中洲の学校ー小さな巣ー鳥が飛ぶ、アランの髪が流れるーその画面を。

それまでのマンガで体験したのことのない感覚が、自分の中に生まれる。まさしく吸い込まれるようにーマンガ世界ー物語の世界に没入してしまうー10歳の子どもは、ギリギリ現実と虚構の境界線を超える、跳躍できる年齢だ。(もう少し後なら分離させて捉えることは、できただろう)

この時のわたしにとって、『ポーの一族』はー小鳥の巣ーは、マンガであってもマンガではなかった。それまで生きてきて、見たことも聞いたことも体験したこともない世界であり、「ここでないどこか」であり、そして、確かにそこにあるー「もう一つの世界」ーだった。

この出会いと衝撃によって、わたしにとっての「マンガ」は、子どものための娯楽でもなく、楽しみでもなくなった。「マンガ」は「自分自身の生きるべき世界」となり、自己と区別のないような何かになる。マンガに限らずこのような感覚は、わかる人にはものすごくよくわかるはずだし、わからない人には全然全くわからないはずだと思う。

そして、そこから本当の母と娘の戦いは始まる。

母から見れば、悪書。得体のしれない通俗な娯楽。ハレンチな性的表現から子どもを守らなければならない使命感。なのに娘は、その得体の知れないものに夢中になりどんどん変わっていってしまう。ろくに口も聞かないし、風呂にも入らないし、肥満してー醜くくなっていく。

母からすれば、心血注いできた教育ー子育ての危機である。親子関係はぎくしゃくしている。その原因は何だ? そうだマンガだ。気がつけば娘の部屋を侵食していく増加して積み上がってくばっかりのマンガの本だ。こんなものがあるのが悪いのだ!(と思ったかどうか、のちの母の話を総合しての想像でしかないんですが。まあそんなところだったんじゃないのかな)

小学6年生のある日、家に帰って、唖然呆然とする。母が、わたしの部屋のマンガをすべて運び出し、紐で縛り上げていた。無断でゴミに出そうとしていたのだ。

間一髪とはこのことだ。ドラマのようにまた映像は蘇る。母に泣きながら掴みかかり、大声を出し「絶対にダメだ!!!」と断固阻止、激しく抵抗する自分の姿。

自分視点なんだから記憶の捏造ですけども…。

大人にしてみれば「ただのマンガ本」に過ぎない。でも、その時の子どもにとっては、それらのマンガは「わたしの世界の全て」に等しかった。本棚に並ぶ2年か3年分の週刊誌から月刊誌の一冊一冊、わたしは、その中の作品と作者名を掲載の並び順ですべて暗記していた(子どもの記憶力ってね!鉄道を全て暗記できる子とかいるでしょ。ああいう力よね)

子どもにとって一番大事な大切なものを、母は「ゴミ」として扱ってしまった。致命的な失敗である。取り返しのつかない、失敗。

母との断絶は、ここから始まり。マンガへの過度な依存もまた、ここから生まれていく。マンガを否定するものは全部敵だとも思っていた。

当時の1970年代の世の中は、マンガが大流行しているがゆえに、批判も否定論者も強かった。「マンガと文学」の対立論も根強くあり。「低俗と高尚」の対立もあった。「マンガを読む大学生」が世間から驚かれ非難されていた時代。

周りは敵だらけだ。その大頭が、家の中の母であったー

自分はマンガの味方だ。マンガは絶対に面白いし、絶対に素晴らしいんだ!

12歳の少女は、固く固く心に誓うー

わたしの、他人に伝えるための「言葉」は、実際に、そこから始まっているー

中学生の3年間。学内の弁論大会で3年連続でマンガについてを題材にして発表した。原稿用紙に6枚分で時間内。作文でなく「原稿を書いた」のは、それが始め。

母への反発と連なる世の中への反発ーマンガを守るためにー

それはまったくもってー自分を守るためーと同義だったのだけれど。

面白いもんでしょ?












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