満たされるということ。
今回は何をもって、わたしたちは満たされるのだろうか。という話です。
人間には、いくつもの「満たされる」という満足感がある。
例えば、ご飯をお腹いっぱい食べる「満足感」
好きなものを買う「満足感」
なにかをやり遂げる「満足感」
そして、この満足感が増えると次第に、満たされ、おそらく、生きる希望となる。
そうは言うものの、そんな満足感など何年も生きていると当たり前になり
人間というものは満たされなくなってゆく。
ご飯なんてただの「栄養補給」で
買い物だって何となく「ストレスのはけ口」で仕事をやり遂げたってそれは「当たり前」となり
「満たされない」毎日がつづく。
不自由のない生活に、当たり前の日々に、私は満たされる事のない環境を感じる。
何を感じて、満たされるのか
何を得られれば、満たされるのか
何をもってして、満たすを自分の中で証明するのか
人間はよく、自分より下層の人間をみて
自分を幸せだと感じます。感違いさせます。洗脳します。
自分に言い聞かせる。
あぁあぁあぁ、あいつより私は幸せだ。満たされている。不満はない。
わたしは、いつから、言い聞かせる事でしか、感違いすることでしか、満たされなくなってしまったのだろうか。
さみしくなる。
言い聞かせの、偽物の満足感は、空虚感しかうんでくれない。
わたしがためてきた空虚感は、満たされない日々をさみしくさせる。
例えば、人間的構造として、満たされる条件があるならば
わたしは生きる事に苦労を感じもしないし
きっと、満たすために生きていけるのだと思う。
それが人生だとしよう。
私は寂しさを少しずつ埋めながら、
満たされる日々を願い、探し、証明していく。
言い聞かせじゃない、満たされる気持ちを得るために
今日も寂しい日々をいきる。
生きる意味を問う。
言い聞かせる。いまの私は洗脳する。
何のために生きる?
満たされるばかりの日々を待ち望んでいるからだよ。
君ってさ、満たされているの?