生死の偽善者をやめました。
「死にたい」という気持ちを、わたしは認めます。って話
よく私は「死にたい」と口にする。
それはいわゆる、いますぐ命を絶ちたいという気持ちの時もあれば
誰かが代弁していた「今すぐ全てを捨ててハワイに行ってお気楽に過ごしたい」の時もある
「死にたい」という言葉には「死んじゃだめだ」というゴミがついてくる。
私の人生を知りもしない人間が、偽善者になって寄ってきて
苦しい言葉をかけてくる。
「生きる」ということが偉い?
「死にたい」と思うことが間違い?
君の感情なのだから、間違えてはいないよ。
「君がいないとさみしいよ」
ほんとは、寂しくなんて、ないよ。
約3年前、昔わたしの事を好きだと言ってくれた子が自殺しました。
他の子を想って。
お互いにきっと、もう、忘れていました。
ましてや、私なんて彼に対しての恋愛感情は一切なかったのだから、自殺を聞いて約3年以上ぶりに彼の事を思い出しました。
その夜、偽善者の私が生まれたのです。
あの告白された日、私が彼と付き合う事になっていれば、彼は生きていた?
あの日、一切の連絡を断つことなく、良き友だちとして彼を迎えていれば、こんな結果にはならなかった?
考えました、後悔しました、泣きました。
忘れていた彼を思い出して、わたしは、泣きました。
そして、1年後、彼の命日が訪れました。
友人に知らされて、また私は、彼の事を思い出し
そして、自分の感情にゾッとしました。
彼の死を聞かされたあの日、泣いた私は
彼の命日を覚えてはいなかったのです。
あの日以来、彼を思い出さなかったのです。
こんなにも私は薄情な人間なのか。とおもいました。
きっと彼の為に泣いたのではなく、ふと訪れた不幸に、自分自身が動揺し、どうでもいい理由を当てつけて、可哀想に。って泣いていたのだと思う。
自分自身にゾッとした時
私は「生死の偽善者」をやめました。
「死にたい」という友人を「死にたいね」って認めます。受け入れます。
わかるよ、本当は、私も死にたいよ。
「死んじゃダメ」ってきみの命の責任など取れやしないのだから
ならば私はきみの「死にたい」って気持ちを受け止めようって。
「死なないで」なんて言わないよ。
だって、私も同じ気持ちだもん。
私たちってバカだからさ
楽しい事より、悪い事の方が目立つし、考えちゃうんだよね。
99の幸せより1の不幸に足を引っ張られるんだよね。
不幸である事が私たちの人生なのかもしれない。
幸せになりたいから生きているんだよね。
不幸の時は「幸せになりたい」を生きがいに生き延びる事ができるけど、幸せになったその先に何があるのか、何を思って生きればいいのか分からないから、幸せのその後の不幸を考えてしまうから、私たちは今日も「死にたい不幸の人生」を生きているんだよね。
幸せを夢見て。
だいじょうぶ、死にたい毎日でいいよ。
私もそう。
幸せに憧れているからこそさ、不幸な人生だと思うことを選んじゃうんだよね。
私たちはひねくれ者のわがままだからさ。
きょうもさ、幸せ者に中指立てながら、私たちの、不幸の人生を生きようね。