怒られるの嫌いだし、馬の合わないあのババアはやく仕事やめてくれないかな。
昔から、怒られるのが嫌いだし、わたしに怒ったひととか、私と意見が合わないひとは減点法で即刻0点。もう一生会わない宣告。
わたし、頭がとてもかたい。
高校生の頃に「この学科は将来私の役に立つことがなさそう。」
なんて思うと、勉強に手を抜いた。
(うちの学校はあんぽんたんなので39点以下が補習にまわされるので40点とれば怒られない。今思うと他の学校じゃこんな低い点許されないなって思う。)
「この授業楽しい・役に立ちそう。」という授業だけ真面目に受けて、勉強もした。知る必要を思って。
学校の勉強ってなんのためにするんだろう。っていまだに思う。
ただ、大人になってから、これ「忍耐力」を養うためかな?って考えるようになった。
好きなものだけを。嫌いなものから目をそらす。そんなことを学生時代にしていた私は、大人になって社会に出て、忍耐力のない自我だけがめちゃくちゃつよい人間に育っていることに気がついた。
2年くらいOL経験がある。(前にも書いたきがする)
1社目は、上司がむちゃくちゃ馬が合わなくてものすごく嫌いになって、やめた。
仕事自体は受付総務部として毎日忙しかったけど充実していたし、お給料面でも特に不満はなかった。(むしろ高卒未経験だけど多くもらっている方だったと思う)
ただ、上司の何が嫌だって、なんか嫌味ったらしい。
毎週ある定例会で社長も交えて総務部が業務提案をするんだけど、その業務提案というのは各自で持ち寄った意見を書類にまとめてプレゼンする。
その中から社長が気になったものをピックアップして、さらに打ち合わせを重ねて実行していくのだけれども
定例会では、もちろん上司たちの意見も入ってくる。基本的には現実味がないとか、予算が厳しいとか。そんな感じ。
入社して一週間で定例会に参加するようになった私は、二週目で「衛生委員会の発足と産業医の稼働」を提案した。
(衛生委員会とは簡単にいうと一定の社員数のいる会社は社員の安全・健康を守るために産業医の元、カウンセリングや月ごとの健康目標を立てたりする会・・・こんな感じだった気がする。)
これは「総務部とはなんぞや」を調べあげた末に出てきた提案だった。
社長もそのころ、衛生委員会の発足を考えていてナイスなタイミングでの提案。即採用にめでたくいたった。
先輩たちがいいところに目がついたね!と褒めてくれる中、総務部の長は一言「二行目のセルの幅が他と少しズレてるよ。」だった。
それ以降「総務部の上司」は「どんな誤字脱字も見逃さないおばさん」になった。
新人のため全メールのCcには上司と社長を入れるのが決まりだったのだけれど、誤字脱字が一文字でもあれば即注意。謝罪文を送らされる始末。
(謝罪文にもミスがあるとさらにその謝罪文を送らされるというマトリョーシカメールが永遠と続く)
誤字脱字をするのはもちろんダメなことだと分かってはいるものの、最高で4連重ねで、誤字の謝罪をするための謝罪文の誤字を謝罪するための謝罪文の誤字を謝罪するための謝罪文を送った私はその日、気じゃなくなり仕事が手に負えなくなった。
(もちろんこの謝罪メールは宛先の人からのアクションはない。ただ上司からの指摘がくるだけだった)
グラビアをやっていた時代もそう。クライアントから自分の納得のいかない意見がくると噛み付いて怒りちらして、歩みよることなく即お断りの連絡を入れていた。
わがまま大将軍。25歳。
自分の意見を曲げることなく通しきるのが大人だと信じていた。
だけどね、人生には、一旦自分を置き去りにして、他人の意見をグッと飲み込む勇気も必要なのだと気がついた26歳。
何か意見をされた時、頭ごなしに「意見が違う!散れ!散れ!」「馬が合わん!私に関わるな!」ではなく第三者に意見を問うようになった。いわゆる審判員な感じで。
それをやらなければ。と思ったのは、ツイッターで今日も暴露などを続ける人間たちをみて。
昔は私もツイッターを通して怒り散らしていた。
ただ、これが全く関係のない人の事件の一連をみたとき「いやいやあなたが悪くない?」ってことの方が多かったりする。
その時、自分の人生で大きな疑問がふってきた「もしかして私も?」
(第三の眼が開眼する音が聞こえた。)
それをきっかけに、自分の中ですんなり意見を聞くことができないものは第三者に相談するようにした。
するとまあ・・・自分よりながく生きている人の意見はだいたい正しい。
もちろん、あんぽんたんな奴もいるけど・・・
そして27歳は自分で他人からの意見を聞き入れて考えられるようになった。
表の仕事をやめて文芸に行きたいと宣言した時「やめるのもったいない!」っていう周りの意見が多かった。
(これに関してはごめんまじで何言ってんだこいつ!と思って分からず屋人間フォルダにぶちこんで火葬した。)
もちろんnoteの更新もやめようと思った。
河下は一度置いてけぼりにして、きちんと自分自身で文章と向き合いたかったから。
グラビアだった河下を気にかけてくれる人がいて、プライベートの河下を気にかけてくれる人がいて、泥酔している河下を気にかけてくれる人がいて、ポケモンのために朝からでかけている河下を気にかけてくれる人がいて、文芸にいきたい河下を気にかけてくれる人がいて。
いろんな人が目まぐるしく私の前を通っては、こちらを気にしていて。
全部の意見を聞くキャパシティはまだないのだけれど、わたしのやりたいを真っ直ぐに気にかけてくれる人のために、わたしは、少しずつnoteをかいていこうっておもいました。もちろん、君のためにもね。
丸くなって「つまんない」っていう人ももちろんいて、怒る元気がなくなったようにも感じて。
それが人生への熱量がなくなったのかと言われるとそうではなくて。
一旦自分を置き去りにして、自分がいたはずの場所に他人を入れ込んでみると、自分の人生にやさしくなれる。
今日も怒られ疲れてしまった君も。いつも理不尽だと泣きつかれている君も。
一旦自分を置き去りにして、大嫌いなあいつの意見を自分の中に入れてみると、自分を助ける術が見つかるかもしれないよ。
あの大嫌いだった、どんな誤字脱字も見逃さないおばさんのお陰で今の私は仕事メールに慎重になったし、自分の文をたくさん見つめるようになったな。って今に繋がってるな。っておもう。
あのばばあ自体は今でもきらいだけど。
人を無理に好きになる必要はないし、私なんて嫌いな人間が9割だけど生きていけているし。
「人を好きになる」という努力じゃなくて「人の意見を聞く」ってことが、大事だと思うからさ。
嫌いな奴は一生きらいなままでいいよ。