祖母の死に装束と、死に化粧
夫の祖母が亡くなったときの話です。
私が初めて会ったのは、祖母が95歳のとき。全くと言っていいほどボケておらず、足腰は弱いものの自分で食事の支度をし、風呂もトイレも一人で済ませられる気丈な人でした。
毎日TVニュースを見て世の動向を知り、何事にも興味津々、耳はもう聞こえないけどおしゃべりが大好き。夫と付き合い出してから割りと早い段階で顔を合わせていましたが、出会って3度目ぐらいのころ、「りえちゃんは、その年まで独身でいたのには何か理由があったの?」とどストレートな質問が来た時は爆笑ものでした。単に出会いがなかっただけです。
買い物も好きで、いっしょに行けばカートを手押し車代わりに一人でずんずん進んで行くので、ついていく私達家族は大変でした。洋服も好きで、ニュース番組の女性アナウンサーの着こなしをいつも見ていると。
私の服装に関しては「いつも白や黒ばかり着ていて地味だね」とのコメント。その頃ミニマリストを目指していたので、まぁごもっともです。
スタイリストスクールを卒業し、パーソナルスタイリストを始めるんだ、この地域の第一人者になりたいんだと言った時は、私の目をしっかり見て「がんばんなさい」と優しく笑ってくれました。
体調を崩し施設に入ることになった時も、入居費用やおむつ代がかかるんだろうと娘である義母に詰め寄り、よく困らせていました(国の保険があるから大丈夫だと諭しても、でも税金でしょ?と切り返されます。変にこの国の行く末を案じているようでした)。
そんなしっかりした人でしたから、亡くなったあとの手続きや葬儀の段取りはとてもスムーズに進みました。互助会の連絡先も、遺影用の写真も、古い着物をほどいて縫った形見分けのお手玉までも、ちゃんと義母に託されていました。
中でも私が一番心を動かされたのは、体調が悪化し入院することになった時「私が死んだらこれを着せて」と義母に渡されたという、青い花柄の浴衣のこと。昔からのお気に入りのものだったと、義母が教えてくれました。
私は、自分が最期に着るものを自分で決めるような、そんな生き方ができるだろうか。
祖母が息を引き取るのを見届けたその日の夜、ずっとそんなことを考えていました。
◆◆◆
亡くなって2日後、あっという間に納棺の日を迎えました。
葬儀社から来た女性の納棺師さんは、はじめはスーツだったものの、祖母を浴衣から死に装束に着替えさせた後、ジャケットを脱ぎ真っ白なフリルのエプロン姿になっていました。
病院でも十分きれいにしてもらっていましたが、納棺師さんは丁寧にドライシャンプーをし、優しくファンデーションを塗り、眉毛を描いてくれました。祖母はパーマを定期的にかけていたので、髪はふんわりとセットしてもらいました。
そしてリップブラシで唇に紅が引かれた瞬間、私はパーソナルカラーのことが頭に過ぎりました。違う、そのコーラルピンクじゃない。わざわざカラーシャンプーを使ってキープしていた、真っ白な白髪がよく似合うおばあちゃん。Summerタイプの義母と肌色が似ているおばあちゃん。
「すみません、もう少し青みのある色にしてもらえませんか」
私の口から、思わずそんな言葉が出ていました。
納棺士さんは少し驚きつつも、手持ちのリップパレットでわずかに青みを感じる優しいピンク色を作って、唇に塗り直してくれました。
祖母が棺に入れられたあとは、顔の近くに淡いピンクやパープルのお花をできるだけたくさん集めてお別れをしました。この時ほど、パーソナルカラーを学んでいてよかったと思うことはありませんでした。
◆◆◆
おばあちゃん、パーソナルスタイリストとして仕事をいただけるようになった私の姿、見てくれてるかな。いつも私のこと地味だねって言ってたけど、私がいないところで「りえちゃんの服は落ち着いているけどどこか品があるのよね」って言ってたの、お義母さんから聞いたよ。面と向かっては褒めないところが、おばあちゃんらしいよね。
30半ばにもなっておばあちゃんがもう一人できるなんて、思ってもみなかったよ。私と出会うまで元気で長生きしてくれたからだね。私にたくさん質問してくれて、応援してくれて嬉しかった。たくさんお話できて楽しかったよ。
夫の祖母はおしゃれにまつわる楽しい思い出と少し切ない思い出を、私に残してくれたのでした。
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