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生命をつかって、うたっている


大好きだったエッセイや小説を、つい最近になってまた読むようになった。

奥底から心を取り出して、記憶を取り出して書く彼女たちの文章は、まさに「生命をつかって書いている」という感じがする。

削って、いるわけではない。
だって、書くことは生命をつかうけれど、またその息吹を再生することでもあるから。

だから、つかってもつかっても、きっと枯れることはなく、そこでまた変容しながら、違う生命として咲いていくようなものだと思う。

客観と主観と、具体と抽象と、芯とゆらぎ。
そんな静かな波を行き来しながら、書いていく様の心地よさ。

生命をつかって書くことで、寂しさも不安も、愛おしさも安らぎも、すべての感情を、そこにのせてゆくことができる。



小学校高学年から中学生にかけて、私は万葉集や古今和歌集の現代語訳を集めに集めて、当時の恋のうたばかりを読んでいた。

だって、季節や自然になぞらえて想いを送るなんて、そんな粋なラブレターある?

直接的な言葉でなくても、その人の気持ちがそうであると伝わる事柄の尊さよ。日本の四季や自然から、そんな風に美しくうたえる感性が育つのだろうか。

娘たちの夏休み中に帰省した実家で全話録画してあった大河ドラマ『光る君へ』を一気見した。美しい文字の和歌のシーンがたくさん出てきて、ハマっていた当時のことを思い出した。

(そういう意味では、何話か前の、道長がまひろに贈った扇子も最高中の最高だったけれど、これ以上話すと長くなりそうなので辞めておきます。笑)

まひろ(紫式部)も、生命をつかって、源氏物語を書いていたのだと思う。

きっとまひろは、道長がいなくても何かを書き続けていただろうけど、道長の依頼で、道長が必ず最初に読んでくれることが分かっていたからこそ、安心して溢れるものを溢れるままにできたのだと思う。

(最新話で、物語を読ませることで秘密を告白するシーンは痺れましたねぇ。笑)

同じく小学校高学年〜中学生の頃、私の実家の家族はカラオケが大好きで、いつも家族で歌いに行っていたのだけど、(私が勉強にハマっていた時期にカラオケ行かずに勉強したい、と訴えたらなぜか怒られた。理不尽極まりない。笑)

当時の私の十八番ラインナップがこちら。


なんてませた小中学生…。(そして今も一人でカラオケに行くほど大好き。ラインナップもそれほど変わっていない。笑)

もちろん当時は、そんな大人の歌詞を理解しているはずもなく、ただただその大人っぽい響きとメロディに憧れて、CDを借りてはMDに録音し、買ってもらったばかりのMDプレーヤーを再生して、カラオケでも歌っていた。


言葉って、同じ音でも、自分の経験値や感情や実感によって意味合いがどんどん深くなるから不思議。

彼女たちのうたの深さが、何十年も定期的に聴き続けて、やっと今になって分かってくるって、すごい。

彼女たちも紛れもなく、生命をつかって、うたっている。



きっと、私自身のうたも、うたい続けることで、これからもっともっと深みを増していく。響きが広がっていく。共鳴が深くなっていく。

同じうたも、もう分かっているから、ってそのままにしない。
一瞬一瞬を深く味わってみる。

生命をつかって、うたってみる。

2024.09.16. 22:58


Photo / Narumi 

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