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[第12回]家にいるのに「帰りたい」?

「かえりたい」

人間、大抵の人間が人生の中で一度は口にした事がある言葉だと思う。
学校から帰りたい、仕事から帰りたい。そんな歳と共に課される憂鬱な宿命からとっとと逃げ失せてほっと安堵できる自宅、ないしは趣味に没頭できる自宅へ帰りたい。明るい電気が灯されて好きな人が待っている自宅に帰りたい。目の前でガミガミと口うるさく唾を飛ばす上司や教師から逃れたい。そんな人もいれば、そんなに好きではないなあ、でも断る理由もないしなあ、なんて曖昧な気持ちのまま参加したもののやっぱりそこまで楽しくはない人間関係で構成された遊びや飲みの場から早く立ち去りたい。そんな人もいれば、、、

まあ、理由は人それぞれ十人十色持ち合わせてはいると思うが、大抵の人間が生きていれば「帰りたい」と思ったことがあるだろう。
わたしもある。なんならしょっちゅうある。毎日のように思う。昔から思う。
基本的にわたしはあまり人と渡り合うことが得意では無いと思っている人種なので、殊更思う。

だけど何故かわたしは自宅でも「帰りたい」と思う。
初めて思ったのはいつだったか、もう十年以上前であることは確かだけれどその“初めて”がいつなのかは記憶にない。
ただ、実家のリビングだか自分の部屋だかで思ったことは記憶にある。
一度それを感じた先にはもう坂を転がり落ちるように簡単で、頻繁に帰りたいと思うことが増えた。
わたしは今になって「実家は自分の家じゃない」と思うけれど、その時は別にそう思って日々を過ごしていたわけじゃない。
もちろん折り合いの良くない実家で心落ち着けて平凡に平和に暮らせていたかと問われればその答えはNOであるし、そこが自らの居場所であるかと問われればその答えもまたNOであった。自分はここにいるべき人間ではないと思っていた。もっと別の場所にわたしはわたしらしく生きられる場所があると思っていた。無理をせずにしたいことを出来て、言いたいことを言える場所があると思っていた。だけど未成年で、中学生で、親の保護下にある自分の「家」を問われるともうそれは住民票があって衣食住の拠点となる実家しかない。
ただ、なんとなく「自分の居場所じゃないな」と思っていただけで、「自分の家じゃない」と思っていたわけではなかった。

ところがどっこい、何故かわたしは実家でさえも「帰りたい」と思うようになったのだ。
わたしは、流石に自らにさえ疑問を抱く。
これ以上に、いまのわたしに、「帰る」場所なんかあるのだろうか、と。
答えは、無い。どうしても、無い。もしかしたら砂漠の中で1ミリのサファイアを見つけるくらいの可能性はあるかもしれないけれど、最早わたしにとってそれは無いと言ってもいいもので、無いに等しいもので、限りなく有り得ない話だった。
誰かわたしを連れ去って、なんて夢見心地なお姫様になることは出来ないけれど、もし出来るのならばそれと同じように、わたしが好きな誰かがわたしを連れ去ってくれて、そのまま養ってくれて、わたしが心穏やかに生きられる日々が来るのに、なんてことは考える。その程度のことは考えていたかった。
でも、それはサファイアを見つけることと等しく難関なことだったから、嫌々だけど実家以外に今のわたしに帰る場所が無いことは認めざるを得なかった。
そんなわたしが思う「帰りたい」の意味を、見つけた日が来た。

「還りたい」

きっとわたしの「かえりたい」は、これだ。
頭の上に星が飛んだ、なんて表現をすると何処かに頭をぶつけたとか事故にあったとかそういうイメージがどうしても思い浮かんでしまうけれど、星が飛んだような、煌めいたような、灯篭が一つずつ照らされていったような、そんな感じでわたしは自分の中にあった「かえりたい」の答えに辿り着いた。
正しいのか正しくないのかは分からないけれど、「わたしの中で正しい」とされる答えに、巡り会ったのだ。

厳密に言うと、“還る”という漢字は常用漢字ではなく、代替として“帰る”を使用する。辞書には、“還る/帰る”と記されている。
要は、示す意味は同じだということ。でも、わたしの中ではなんとなくニュアンスが違う。
持ちうる言語と語彙で表すことはなんとも難しいけれど、わたしの「帰る」は「既に出来上がった居場所という特定の場所に戻る」ことであって、「還る」は「自然や土や誰かに決められたところではなく自らが産まれた原点であり本来いるべき場所に戻って0になること」である。ある意味、帰ることは生きることであり、還ることは死ぬことなのかもしれない。

そうなるとわたしの中に生まれている還りたいという欲望は希死念慮であり、抹消欲求であり、消滅願望ということになる。
帰ることは存続すること、還ることは消え去ること。
わたしは、後者を望んでいたのだと、気づく。
消えたかった、死にたかった、還りたかった、この世の中に存在するべきでは無いのだと思った。

それに気づいたとて何かが変わったわけではなかったけれど、「答えを見つけた」ことに対する爽快感のようなものは手に入れた。
人間は輪廻転生を繰り返して生きていくなんて話があるけれど、誰かが証明したわけでもないし、答えは神の味噌汁。あ、神のみぞ知る。
また生まれ変わる可能性があって、またこんな思いをするなら産まれたくなんてないのだけど、なんなら今のわたしはすでにもう嫌になってしまっていて困る。
産まれたくなんてないと言いながら、産まれるためにはまず死ななきゃいけないわけで、でもその死ぬ手段と勇気を手に入れられずにここまで来た人間としては、生まれ変わった先の天望の話をするなんてことは本末転倒であり、取らぬ狸の皮算用であり、杞憂でもある。

還る。帰る。変える。還ることは今を変えることなのかもしれない。


Photo… 佐伯亮 (@affriolante4)

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