[第8回]ボーダーライン
チンチロチンチロチンチロリン、なんて虫の音も聞こえてきて、暗くなるとともに一気に気温が下がる。暑い暑い、と言っていた数か月前。今では気づけば両手で身体を抱き「ああ、寒い」なんて独り言を呟く。23年経ってもなお、夏に冬の感覚は思い出せないし逆も然りである。季節の境目。今年は寒暖差も激しく、少しでも油断すれば感染症に限らず体調を崩してしまいそうだ。
さて、今回キーボードを叩くに至るひとつのテーマを思いついてから、いざ今に至るまでには多少のタイムラグがあった。私用が忙しかったというのもあるが、気圧と気温の上昇下降に負けていた。なんと弱いのだろう。いや、違う。なんと地球は偉大で壮大でとてつもない存在なのだろうか。
ぼうっとニュースを流し見するのはいつもの事。わたしはなんせ小学校の頃からニュース番組を観、新聞を読む癖がついている。それは、幼稚園の頃から「朝はニュースの時間」と言われ、「新聞を読みなさい」と言われて朝食のお供は新聞になり続けていたからなのか。母のその教育論より、わたしは早くから様々な漢字を学び、言葉を学び、大きな事故や事件というものに大きな興味を抱く子どもに成長した。父はそれをあまり良くは思っておらず、出来るだけセンセーショナルな報道にわたしが興味を持たないよう、見せないよう、話題を避けるようにしていたようだが(つい先日聞いた話である)。時すでに遅し、小学校も2年生になりたての頃には祖母の家で齧りつくようにして某脱線事故の報道を耳にし、凄惨たる光景を目にしていたのを強く覚えている。その反面、皆がそろって朝に見てきては登校中、学校に着いてから、今日のその番組についてああだこうだと話している子供向け番組を見せてもらった事はなく少し寂しい思いをしたのも、覚えている。
話を元に戻そう。わたしはダイニングチェアに座りながら、夕方のニュースを眺めていた。休みの日の夕方というのは中途半端なもので、19時から始まる番組への待機時間は、決まったチャンネルの天気予報やニュースや小さな番組を観るわけでもないのだ。その日に何チャンネルの何という番組を観ていたのかも覚えていないが、某事件について久々の報道がなされていた。そこで、加害者がこんな発言をした、とアナウンサーが無機質に読み上げる。
「1人目を殺す時は2日間迷いましたが、そのあとは次々と」
「2人目以降を殺す事には慣れてしまって罪悪感がなかった」
世の人々はその発言に対してどう感じたのだろう、狂っていると思うのだろうか。道徳心に欠けている、どこかおかしい、そう思うのだろうか。ところがわたしは非常に"人間らしい"と思った。
何故ならわたしは、全ての人類は二択の中に生きていて、一本のボーダーラインの元生きているのだと信じているからだ。この世の中に、100%なんてものは存在しないし、絶対なんてものは存在しない、そう思っている。わたしも、貴方も、その家族も、友人も、みんな、何等かの可能性と隣り合わせに生きている。綱渡りをしながら一分一秒を過ごしている。いつ死ぬかもわからない。もしかすると不慮の交通事故に遭うかもしれないし、いつ地震が来るか分からない。火事が起こるかもしれないし、家にダンプカーが突っ込んでくるかもしれない。看板が空から降ってくるかもしれないし、道路が陥没しない確証もない。一秒後に生きているという確約は何処にもないし、神以外には誰にも出来ないのだ。もしかすると神すら、知らないかもしれない。
それは生死だけではない。犯罪を犯す可能性だって、すぐ真隣に存在するかもしれないのだ。わたしはこの世の中に存在する犯罪者のすべてが「悪」ではないと考えている。無論、日本という国で生活している以上、そのルールともとれる法律に違反した行為は褒められたものではないし、認めることは不可能である。しかし、この世の中には人を殺さなきゃいけない事情を抱え込んでしまう人だっているし、人を殺すことを避けられない人もいる。犯罪者のすべてがそれに当てはまるとは思っていないが、あくまでそういう人もいる、という話だ。
それに付け加え、人間は一本のラインを踏み越えてしまうと「そっち側」の人間になってしまう。一度行動に起こしてしまうと、一度経験してしまうと、その前には後戻りできないのだ。
人を殺してはいけません。そんな道徳をなんとなく教えられて、何故人を殺してはいけないのかという理由を根本から教育されることもなく、粗放に「そういうものである」として生きている人間が、その道徳心とそれに伴う理性を失ってしまったらどうなるのか。それは「人を殺した側の人間」としてその先一生生き続けるしかないのだ。もう、「人を殺したことがない側の人間」には戻れない。
何事も人間は「慣れ」るだろう。1度で慣れる人もいれば10度繰り返しても慣れない人間もいる。だけど、いつかは慣れるし、なにかしらには慣れる。難しい本を読む事にも、入れるのが怖かったコンタクトレンズにも、右に左におろおろしていた仕事にも、なにがなんやら取り扱い方の分からなかったスマートフォンにも。ことの大小はあれど人間は色々な慣れを経験しながら生き、成長していく。たまたま、加害者は人を殺してはいけないという道徳心と理性によって成り立つボーダーラインを踏み越えてしまい、踏み越えた先にある行動にたったの1度で慣れてしまった、ただそれだけの話な気がする。
勿論それを肯定するわけではない。日本中をも震撼させた、薄汚い性的欲求と金銭目的だけで成り立っている自分勝手な犯行だ。
しかし、加害者を「こちら側」に引き留めるだけの何かは無かったのだろうか。人を殺すという、大概の人間が経験せずに命を終える行動にたった1度で慣れてしまう背景には何があったのだろうか。
連続殺人を犯してのうのうと生き、悪びれずにへらへらと供述する加害者にサイコパスだという言葉を投げる人もいるだろう。だけど、加害者は根っから可笑しかったわけではない。人を殺めるという行為に対して「2日間悩んで」行動に起こし、その後「慣れてしまった」という非常に人間らしいととれる発言がある。それらは到底、根底から腐りきって生まれてきた化け物の供述だとは思えなかったのだ。
わたしたちとなんら変わらない「一人の人間」の言葉に思えたのだ。
きっとわたしたちも様々な可能性と隣り合わせに生きている。一歩間違えば、そちら側に転落する可能性を孕みながら生きている。
少しばかり今回の本筋とは逸れるが、以前記した記事([第8回]「死にたい」は必ずしも「死にたい」ではない)の派生版として一部遺そうではないか。
わたしは、自らが味わったことのない「死」というものへの興味や好奇心を一部前回記した。その逆パターンとしてわたしは「わたしが「少女A」になっていたら(仮)」というタイトルで別の記事を更新しようとした。だがしかし、文章を綴っていくにつれて、自分自身で流石にこれは……と思ってしまう自分自身が露呈してしまったので、わたしはそのページを闇に葬る事にした。それを表に出すだけの勇気はわたしにはなかったという事だ。
だけど、だからこそ抜粋して残せる部分はここにペーストしようと思った。
死ぬ瞬間への好奇心があるわたしは、逆に、殺害願望だってある。
特定の人物を殺したいと思う事、恨み辛み嫉み妬みは人間誰しもある程度社会を生きていればあるだろう。それほど強い殺意を覚えなくとも、消えてくれたらいいのにと思う事や、居なかったら良かったのにな、と思うことはあると思う。無論、わたしもそれは例外ではない。
ただ、そういった「殺したい」ではなく、好奇心から来る殺害願望だ。死ぬ間際、殺される間際に人はどんな顔をするのだろう。人を刺した時って、皮膚を刃物が切り裂いた時ってどんな感覚なのだろう。首を絞めて苦しむ顔から死に向かって虚空の表情(カオ)になった瞬間わたしは何を思うのだろう。死んだ人ってどんな顔をしているのだろう。写真や動画ではなく、実際にこの目で、この手で、確かめたい。そういった好奇心もある。
そんなわたしは歪んでいるのかもしれないし、普通なのかもしれない。他人がどういった感情をもって生きているのか、どう感じて過ごしているのかわたしには分からない。そういった興味や好奇心が通常なのか異常なのかの判別はわたし自身には出来かねる。わたしがその一線を踏み越えなかったのはきっと理性だ。
そういった行動に移すまで自らを突き動かすだけのソレがなかったのかもしれないし、将来を危惧したのかもしれない。少年法も適用されない年齢にもなればなおの事である。適用されていても、生涯「少女A」として本名を探られ、顔を晒され、名前を変えても自分が死ぬまで追われ続ける。こんなネット社会じゃあ、当たり前の話である。安易に想像がつく。それらのデメリットと、興味というメリットを天秤にかけた結果が、今なのかもしれない。
逆にいうと、天秤にかけるという行為が出来なかった過去があれば、天秤にかけるという行為が出来ないまでにわたし自身を突き動かす何かがあれば、もしかすると凶悪犯罪を起こしていたのかもしれない。もしも、の話であり、可能性の話なので、そうであったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。ある種、わたしの名前の由来になっている「理性」に縛られた結果かもしれない。名前は呪いだ。わたしの両親はある意味正解の選択をしたのかもしれないし、それがわたしを縛り付けているのかもしれない。
そうしていればもっと今は楽だったのかもしれないし、もっと今は苦しんでいたのかもしれない。あくまでもパラレルワールド、ifの世界線なので、今の世界を生きるわたしには分からない。
…
…
この先は、口を閉ざそう。ただわたしが思うのは、自らが「興味や好奇心」と「特定者への恨み」という全く別物の感情で、そういった行為に及んでしまう可能性はすぐそこに迫っていたし、今も迫っているということだ。そして、そうせずに今ここに居られるのは、ボーダーラインを踏み越えなかったからという単純明快な理由しか存在しないということである。
それはわたしだけに限らず、この世の中に存在するすべての人に言えるという事だ。あいにくこの日本には「過失」という言葉が存在する。そういったものを含めれば、年端もいかぬ子どもにだって人を殺めてしまう可能性はそこにあるのだ。遊び半分で突き飛ばした子が運悪く道路に飛び出してトラックに轢かれてしまった、喧嘩の延長線上で投げたものの当たり所が悪く大量出血した命を落としてしまう、……想像するだけでも様々だ。
人々は皆、なにごとも自らに影響のないことは対岸の火事だと思っている。だけど、対岸で火事が起こっているということはそれを渡す橋を伝って自らの元にも火が届く可能性があるという事に大抵の人が気づいていない。自分は安全な場所にいるのだと思い込んで好き勝手な事を言うし、石を投げる。自身の安全の保障なんてどこにもないのに、どうしてそれに人々は気が付かないのだろう。どこまでも他人事なのだろう。そう言っているわたしも、何故テレビの中の火事やら地震が身に降りかかるなんて上手く想像できずにいるのだろう。人の脳は、ひどく稚拙である。
Photo...竹蔵(@takezo_1227)
Retouch...ELLY(@Rie_lapxxx0)