[第3回]「コロナに負けるな」その言葉へ私が抱いた自問自答。
それぞれの国には、国民性というものが存在する。それは時折誉め言葉にもなるし、差別にもなる。ただ、漠然としたイメージとして皆なんとなく「この国の人はこういう考え方だ」とか「あそこの国の人は顔の整った人が多い」とか、それとなく持ち合わせているものだと思う。
日本人はどうだろうか。日本人といえば、働き者で仕事の時間が圧倒的に長い。自己犠牲を美徳とする。観光客に優しい。横並びが好きで、逆に突出する者が好きではない。人に合わせる事が上手く、個人よりも団体として括られたがる。アイデンティティよりもグループの色を好む。控えめで、自己主張が強くない。そういったイメージを持つ人間は少なくないだろう。
昨今、日本はおろか世界中を騒がせている「コロナウイルス」とやらが蔓延している。最初は対岸の火事だったものが段々と身近に迫り、対応に遅れた我々は他国の失敗を見ていたにも関わらず同じ轍を踏んでいる。目先の快楽に囚われて拡散するものもいれば、日本人の悪い癖だ。社畜魂から体調が悪いにも関わらず出社し、そこでクラスターとなる場合もある。今の日本は、数週間前、数か月前の海外だ。まったく同じ光景が繰り広げられ、この先も同じ道を歩もうとしている。
Twitter等をはじめとするSNSやテレビの世界で、よくこんな言葉を耳にする。
「コロナに負けるな!」
私はこの言葉に疑問を抱く。感染症やウイルスとは、勝つとか負けるとかそういう類のものなのだろうか、と。戦争のごとく、旗を上げ、軍を作り敵陣に斬り込み、倒すものなのだろうか、と。ウイルスとは果たして人間が憎むべき存在なのだろうか、と。しかし、少し考えてみるとその言葉を日本人が多用する意味が理解できたような気がした。そこで、冒頭で私が述べた「日本人としての特徴」に繋がるのだ。
わたしの中での日本人というものは共通の敵を作りたがる。そして共通の敵を作る事で、その相手を敵視する人間同士を仲間だと思い込む。逆に言えば、敵を作らなければ個人でグループを形成できないとも取れるのだが、その光景は日本社会においてよく見られる。例えば学校や会社なんかで起こるイジメ問題でもそうだ。ターゲットとなる「いじめられっ子」を生み出す事で、その他が一丸となり仲間意識を持ち、そこに酔いしれるのだ。自分は「向こう側ではないのだ」と安住し、自分の周りにはこんなにも「こちら側」の人間がいるのだと安堵する。誰かが気に食わないから、あいつの態度が悪いから。そんな理由がある方がまだまともである。
嗚呼、こんな事を言ってしまうと語弊がある。イジメにまとももクソもない。イジメはイジメであるし、それは犯罪だ。決して許されるべき事ではないし、上だとか下だとかレベルをつけるべき問題ではない。相手に問題があっても人をいじめてはいけません。確かにそうだ。一対一ではなくなった時点でそれは不平等である。だが実際に相手にいじめられる側がきっかけを作り、その対処法を知らない子供がいじめという形でしか自己主張が出来ず、打開策を見出せないケースがあるのもまた事実である。しかし、自分には仲間がいるのだと認識し、安心する為に敵を作る行為は理不尽かつ自分勝手にもほどがある。そんな愚かなイジメ問題が後を絶たず、いつまでもこの日本社会において子供も大人もまかり通っているのはそういった「共通の敵を作って仲間意識を高める」という日本人の特徴があるからではないだろうか。
わたしは昨今の風潮を見て「コロナウイルス」という「国民(世界的)共通の敵」を作り上げる事で仲間意識を高めようとしているのではないか、という考えに至った。日本人の悪い特徴が、プラスに傾いた瞬間だとも言える。ウイルスなんて存在は敵じゃない。AIが意志を持つようになり、ウイルスを創り、バイオテロを起こして人間を絶滅させる…なんてありきたりなSFストーリーでもない限り、いや、もしもそうだったとしても敵対視すべきはAIである。創りあげられたウイルスには意志も、感情も、意図も何もない。
しかし、他人事だというだけの距離もない、いつ自らの身に降りかかるか分からない、国全体がパニックを起こしている状態の時に国民が政府の意向に背き、好き勝手に行動すればなおの事ウイルスが蔓延するだけである。実際、自宅自粛要請が為されているにも関わらず「私は掛からない」「私は掛かっても悪化しないから平気」という何処に根拠があるのやもしれない無駄な自信や、「風邪と大差ない、今は新たなウイルスだから皆恐れているだけで、皆で罹患して治療して免疫を創ればいい」などという机上の空論なんかを持ち合わせた国民が遊びまわった事で、感染者も死者も爆発的に増えた。二週間という潜伏期間の間に外でウイルスを撒き散らす。撒き散らかされたウイルスを持った人間が外に出て、更に…と何処まで行ってもそれは止まる事を知らない。そんな現状の中、打つ手立ては「如何に外出を抑え、これ以上の感染者を減らすか」の一途を辿る。緊急事態宣言。それが宣言されてもこの国は何も変わらない。法で変わらない以上、国民のひとりひとりが意識を高めるしかないのだ。
何処かで誰かが倒れていても、触らぬ神に祟りなし、で見てみぬふりをする。いつしかそれが国民性となっている。どんどんそれはエスカレートし、ご近所付き合いも国民同士の気遣いも希薄になった。団体で括られたがる割に自分たちのアイデンティティで強く結びつく事の出来ない日本人が、どうすれば一丸となれるのか。その結果がその国民性に基づいた「敵を作ること」なのだと思う。コンサートや舞台等の延期・中止。不要不急の外出自粛要請。その割に仕事は「補償がされない」から休みになる事はない。ストレスだけが溜まる。そんな状況で、Twitterではどこどこの生徒が帰省して感染が拡大しただのなんだのとつるし上げのようなツイートが多く流れてきて、わたしは非常に辟易している。結局はSNSという自宅で気軽に利用できるツールでまた、他人を攻撃し、それに同調した人間同士でグループを作り快楽を得る。
……なんて見苦しいのだ。もう、止めにしないか。誰かを叩いたところで得られる快楽なんて僅かなものだ。それならばまだウイルスを憎む方がよっぽどマシである。誰かに敵意を向けたければ、それが伝染しても誰も困らない対象にしないか。誰も傷つかないものにしないか。娯楽が欲しければ、そんなに愚鈍で子供じみた行為よりも、読書・音楽・映画など、家にいても簡単に触れられる芸術に触れてみないか。きっとこの事態が収束した後に、自らを成長させてくれるエネルギーとなるだろう。今は豊かな時代だ。ネットに繋げば簡単に安価で様々なものがデジタルで購入できる。
耐えるしかないというのは非常につらい。だけど、その耐える時間を少しでも縮める為にも今はそういったもので取り敢えずフラストレーションを発散するしかないのだ。負の連鎖だけはしたくない。エンターテインメントというのは平和の上にはじめて成り立つものだと教えてくれた人がいる。その人の言っていた意味が、今になってよく分かる。ショービジネスは平和な中でしか開催できないのだ。私はエンターテインメントが大好きだ。早く世界に平和と、エンターテインメントと、何より笑顔が戻る事を願ってやまない。
Photo...つのりゅう(@2noRYU)