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[第11回]自己像と理想像 #woofer887


長らく更新が滞っていた。理由はただひとつ。このnoteというツールの仕様が変わり、メールアドレスを認証しなければ記事を作成出来なくなってしまったからである。キャリアメールは一向に届かず、PWは忘れ去った私に打つ手は無かった。が、なんの神の気まぐれなのか、1年届かなかったキャリアメールは、あっさりとPW再登録メールを受信した。バイブレータが煩く鳴り響く。そして私は今に至るという訳だ。


何から書こうか、数日前ならばわたしはそう悩んでいただろう。しかし今のわたしはもう題材を決めている。時は昨日。

わたしは、ひとつのブログを購読している。とある事務所(わたしの持ち出す事務所など一つしか無いという突っ込みは聞かなかった事にしておこう)が運営している有料サイトの中に設営されてある連載の一つで、それはアーティストごとにページを持っている。つまり、そのサイト・いわゆるジャニーズウェブに課金すれば、そこで連載を持っているアーティストのブログはすべて読むことができるのだ。

元より応援していたアーティストがつい一か月前にやっとこさ開設出来たブログ。無論迷うことなく私は購読リストのひとつにすぐさま追加したわけであるが、そのグループの連載の名前は「異担侍日報~侍ふ。~」という。初見殺しもいいとこだ。読み方は「いたんじにっぽう~さむらいふ。~」とご丁寧にトップページに説明がある。

まずは彼らの説明をざっと。興味のない人は飛ばして欲しい。

彼らはジャニーズJr.、所謂まだメジャーデビューをしていないユニットで、グループ名を7 MEN 侍(せぶんめんさむらい)と言う。故社長が、黒澤明監督作、映画・七人の侍を由来に命名した。なんと歌もダンスもバンドもスケボーも(!)マルチにこなすグループであるが、何を隠そう彼らは自多ともに認める「ジャニーズJr.の異端児」である。何故そう呼ばれているかを語ると長くなるので割愛するが、構成員が「芸術学部で油絵を専攻していたスケボーメダリストの絶対的女帝最年長(自己プロデュースが上手すぎる、年を取るどころか年々若返る)」「魚と麺類をこよなく愛す、数学模試全国1位経験者の変人理系現役早稲田大学院生(めちゃくちゃ顔がいい)」「初出場したSASUKEでなんといきなり1stステージをクリアしてしまうひたすら優しい筋肉マン(成人男性一人称は自分の名前)」「小学生の頃からハモれる歌とギターの得意な世間知らずのお坊ちゃま(見た目はヤンキー中身は陰キャな姫)」「普段は優等生なのにステージに上がった瞬間白目を向き中指を立てヘドバンをし、人から楽器を奪い取って暴れ回る、然しどんな楽器でもプロ並みにこなしてしまう現役音大生ネット民(リアコ、そして陰キャ)」「ダンススクールで惚れた先輩を追いかけて事務所に入り、初見で5歳年上の先輩を呼び捨てにし、自室でシャンプー・メントスコーラをする動画を突然アップする最年少狂犬ドラマー(ダンスがめちゃくちゃ上手い)」の6人(偏見による紹介)なのだ。何故7MEN侍なのに6人なのかは紆余曲折あったので、Google先生に頼って欲しい。そして、まあこんな短いキャッチフレーズで彼らを説明する事などまず不可能なので、気になった方はもれなくYoutubeかIsLANDTVで検索して頂きたい。ちなみに先日行われたシアタークリエ・ジャニーズ銀座でのMCレポートは話題を呼んでいる。


ところで本題に入ろう。昨日、水曜日はその中でも5人目に紹介した現役音大生である矢花 黎(やばな れい)さんがブログとIsLANDTVを更新する曜日なのであるが、その内容が非常に興味深かったため自分も文字を綴ろうと思った次第だ。さて、ここに来るまで文字数は1400字。大抵の人間がスクロールバーを見て、もしくは長ったらしいヲタクの説明に辟易してバックキーを押したことだろう。まあ良かろう。所詮これも、自分の為に書いているエゴ連載だ。


彼の綴った昨日のブログの内容をここに書く事は出来ないし、有料ブログなので細かく引用する事も出来ないのだが、彼が「思ったことがあればそれと一緒に#woofer887を付けてブログでも書いちゃったりなんかしちゃったりして是非教えてくださいね!!(圧力)」というので、乗っかっちゃったりなんかして、書いてみようかと思う。ちなみにwoofer887は彼のIsLANDTV、ウェブ連載でのハッシュタグ、名称である。


SNSとは、仮想空間において存在している分身であり本当の自分ではない。

自己像と理想像の乖離。まあ簡潔にいえばそういう内容の記事であって、彼の連載はまだ6回しか更新されていないが、経験則からいくと、哲学とか、思想とか、問答とか、そういうものが多い。わたしはそれが好きだ。


彼は、「自分ってそんな感じじゃないんだけどな」という、「自分という人間を勘違いされている」と思ってしまう"違和感"、そしてその勘違いを「他者が自分に求める理想像」だと称した。

わたしを他者が見た時の「像」がどういうものなのかわたしは知らない。何故ならあくまでわたしはわたしであり、他者の視点からは見られないからだ。

だけど、それを「言われる」という意味合いで認識するとすれば、よく感じるその勘違いと違和感は「わたしが人見知りであるか否か」。わたしは実のところ、驚く程に人見知りだ。他人と極力喋りたくない。店員さんに声を掛けられるのは好きではないし、掛けるのも好きではない。初対面の人に気兼ねなく話すなんて無理だし、何を話していいかも分からない。わたしは究極の人見知りだと自負している。

昔は誰かれ構わず話せたし、知らない子とでも一日で友達になれたのに、今じゃネットの友達相手でも突然電話する勇気は何処にもない。しかしわたしの周囲の人物は皆揃ってわたしを「人見知りなわけがない」と言う。おそらく本気で。そして、初対面の方には揃って「気さくな人」だと言っていただく。つまりみんながみんなそう言うという事は、おそらく他者からわたしは人見知りには見えていない。それがいい事なのか悪い事なのか、そう問われるとおそらく社会的にはいい事なのだと思う。でも、彼が書いていた「そんな感じじゃないんだけどなあ」みたいな感覚を覚える。


そしてわたしは究極に自分のことを畜生なほどに性格が悪いと思うし、優しさはないと思う。無意識に人を傷つける人はいるけれど、わたしは自覚して人を傷つける。まあそれはもれなくわたしの攻撃対象に入った人間に限るのだけど、逮捕された時の供述で「殺すつもりはなかったんです」という犯人像でなく、「殺そうと思って刺しました」と自供するタイプの犯人像である、ということ。わたしは、「冗談のつもりだった」という言い訳で人は傷つけない。わたしの口から発される、「そんな言い方しなくても」と咎められるような言葉はもれなく相手がどう受け取るか分かっていて、敢えて鋭い刃のような単語と言い回しを選択している。

だけど、わたしの友人たちは、特に幼馴染はいつもわたしの事を「優しすぎる」と言う。わたしは自分が「優しくない」と称される事に違和感は覚えないが、「優しすぎる」と称される事に違和感を覚える。別にそれは嬉しくないとか言うわけではなくて、単純に不思議なのだ。自分の何処が優しいのか、、と。まあ、それに関して不思議に思う事は別の記事で展開しよう。


彼はあくまでアイドルで、虚像で、偶像だ。当然画面やステージやSNS、雑誌、そういう媒体を通して与えられた情報のみで勝手に矢花黎という人物像を形成しているファンと、そこに出さないものを隠し持っている本人の中での自己像に乖離が生じるのは当然だろう。

彼は「勘違いされる」っていうことに対してある種のトラウマがあるみたいだと語ったけれど、彼を見る、彼の周囲の人物……例えば家族、例えばメンバー、例えば友人、そういった人間の思い描く"矢花黎"と本人の思い描く"矢花黎"に違いは無いのだろうか。

わたしは、主として写真をメインに活動しているので「中身」を出す事はあまりなく、それは例えばSNSとか、こういうエッセイだとかで恐らくみんなは知る。あとは撮影の時、実際わたしと会った方々がどういう印象を抱くかだ。そこで私を知った人間の思い描く"わたし"と、わたし自身の思い描く"わたし"に乖離が生じるのは、彼の感じている違和感、分身と同じだと思う。

だけどわたしはそれを、わたし以外の全員に感じるのだ。

まあ結局「他者は"他の人"であって自分ではないのだから」当然なのだと思うけれど、(下書き放置していた内容を彼の更新に先を越された…) 友人の思い描くわたしとわたし自身の思い描くわたしは違うし、きっと友人の中でも友人A、友人B、友人C……其々思い描く"わたし"は違うのだろう。それが完全に一致する日は来ないのだろう、きっとこの先もずっと。単語的に、断面的に一致することはあるだろうけど、完全に一致することはないだろう。でも、それは自己像も理想像もすべてひっくるめて自分なのかもしれない。例えそれが理想像であろうとも、他者にそう見えている時点で、そう見えているのだという確固たる事実がある時点で、それはもう「わたし」なのかもしれない。


そもそも、わたしは彼のいうところの「自己像」が分からない。時々、というよりも頻繁に「本当の自分」が分からなくなる。

わたしは、割と他者から裏表のない人間だと捉えられがちだしあながち間違いはないのかもしれないけど、わたしは案外仮面をかぶって生活している。というより昔から仮面をかぶらないと生活出来なかった。それでも時々ストレスが限界値に達すると仮面が派手な音を立てて割れるのだけど、仮面をかぶらず素で機嫌が悪い時のわたしはもれなく空気を凍らせる。その自覚がある。だからよっぽどでない限りは、仮面をかぶらないとその場が成り立たないのだ。裏表、というよりも変面のようなものだ。

もう流石に大人なので、多かれ少なかれみんなそうやって自分を抑えて笑顔を取り繕って生活していると思う。でもわたしは、良く言えば自由に、悪く言えば自分勝手に、感情を隠さず生きているように見られる。それも、自己像と理想像の違いだ。仮面をかぶる事が自然過ぎて、かぶっていないように見えると言われれば誉め言葉なのかもしれないし、演技が上達したと言われればそうなのかもしれない。だけど逆に言うと、仮面をかぶるという事が幼少期から過剰なまでに染みついているので、もう、わたしは自分が今楽しいのかそうでもないのかという自分の感情さえも正直分からない時がある。心の底から楽しいと思う事はあるのに、ふとした時に冷静な自分が「それは本心なのか?」と問いかけてくるのだ。今の自分は素なのか、仮面なのか。

そして、職場や家など様々な場面で使い分けている「自分の面」は、全てで何面あるのかという話題。わたしは、自分が関わる人の数だけあると思っている。家族の中でも、父、母、妹に見せる顔はそれぞれ違うし、職場で見せる顔も、相手の立場違えばそれぞれ別の顔をするし、友人に対しても相手によって見せる顔は違う。5人いれば見せる面は5通りあるし、50人いれば見せる面は50通りあると思う。それは人によって都合よく態度を変えている訳ではなく、寧ろ「同じ自分」でいる為に面が変わる。つまりは、相手が違えばそもそもの自分の立ち位置が違うということ。階段の真ん中に立っている自分を常に保持し続ける為に、三段下に立っていればその分上がるし、三段上に立っていればその分下がる、という表現が正しいだろうか。上がっている自分と下がっている自分じゃ、その分昇降しているので見せている面は違うだろう。同じに見せる為に変わるというのは自然なのか不自然なのか、矛盾なのか矛盾じゃないのか分からない。

勿論自分にしか見せない自分の面もある。それはわざわざ真ん中に立つ必要性もないのだし、突き詰めれば、自分にしか見せない「面」が真であり自己像なのかもしれない。だけどTwitterに浮上していれば一人でいる時すら誰かを相手にしているし、壁打ちのつもりでもやっぱり世界に発信しているという自覚がどこからか顔を出す。そう考えると、自分だけに見せている自分というのもどういう時なのかは分からなくなってしまう。一人でお風呂に入っている時なのか、ベッドに横になっている時なのか。でも、自己像というひとつの像自体が百面も二百面もある気がする。一分前の自己像と今の自己像と一分後の自己像はそれぞれ別な気がする。まあ、自分で自分を認識していない(できていない)以上、自己像もくそもあったもんじゃないのかもしれないが。


彼の敬愛している某ステルスメジャーアーティストの方が「自己像と他者から要求される理想像は常に乖離しているもので気にしなくていい。乱暴かもしれないけれどそれこそが最終兵器だ」と仰っていたらしい。

わたしも、「自己像と他者の理想像」の乖離と勘違いに苦しむ彼と同じ違和感を覚えながら「自己像と自分の中にいる自分というある意味での他者の理想像」の乖離と疑念にも違和感を覚えている。わたしは解離性障害を患っており、自分でも自分が他人に覚えるので、上のような言い回しをした。

だけど、面が多く、面が乖離している事は悪い事なのだろうか。自分自身が分からないとか、違和感だとか、そういう謎は多く残るし苦しくなることもあるものの、わたしたちは「表現者」だ。面が多ければ多い程、表現の幅は広がる。ひどく冷静で常識人な彼も、年相応に楽しそうにはしゃいだりふざける彼も、ステージ上で『ヤバイ』彼もわたしは好きだ。わたしが見る彼の姿、彼がわたし含め多くの人達に見せている姿は共通して「ファンに見せる、タレント、アイドル、バンドマンとしての彼」だけど、その面はギャップという言葉じゃ足りない程に多岐に渡る。良く知らない人は、ステージ上の彼とステージを下りた彼を本当に同一人物なのかと疑うほどには。そんな面の多さは間違いなく、彼の長所であり強みであると私は感じる。そう考えると、そこに付け加えてまだ隠れている彼自身の「自己像」が露わになった時、それは強みを増すだろう。

わたしは彼の敬愛している方の言葉の真意は分からない。何故なら初めてこの言葉を知ったからだ。だけど、そういう意味では確かに"最終兵器"なのかもしれない。

彼は、その理想像と自己像を近づけられるように活動していこうと思う、と括った。わたしは、マイナスを隠す仮面をかぶりつつアイデンティティという面での自己像を隠さないスタンスでいるから、わたしの理想像と自己像の矛盾は主として良と働く事が多い気がする。だけど、無論仮面という名の「割り切り」をする事が多いので、ある意味オフィシャルとプライベートにおけるスイッチのオンオフが明確に切り替えられるとも捉えられるだろう。因みに、このエッセイは基本的に「自己像」に途轍もなく近い何かなのではないだろうか。ここに綴っている言葉は本音。だけど以前お蔵入りにした記事があるように、自らの全てを吐露できる訳ではないので、"自己像に途轍もなく近い何か"。

ただ彼の「理想像と自己像」を近づける事が、そのスイッチを無くしてしまう事なのだとしたらわたしは聊か不安が残る。いつか、オフィシャルとプライベートの差が無くなって病んでしまいやしないかと。彼は特段、ファンとの距離が近いと感じるからこそ、まあ、これは勝手なヲタクの心配なのでここで語るのは止めておこう。……


わたしは、わたしの中でその相手に適した距離感、適した「理想像」で接する事が大体だ。その理想像で接する為に適切な距離を築く。良くも悪くも、好き嫌いも癖も強い人間なので距離感を誤ると間違いなく失敗する、と思っているからだ。無駄に距離を詰めたり、離れたりするとあまりうまくいかない。だからこそ、うまいスペースで長らくわたしと関係構築できている人は稀有だと思うし、感謝もするし、尊敬もする。有難う。これからも、どうか。まだ見知らぬ、未来の友人たちへもその言葉を贈ろうじゃないか。


この記事の上手い括り方は、いまいち掴めない。





Photo...sono (@snst2004)

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