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[第4回]言葉はナイフであり繭である。

日本語。

日本語、言葉の難しさというものは初回の更新で私は僅かながら綴った。


>>言葉は甘美に人を救う事が出来るけれど、それと同時に惨酷に人を傷つけ殺す事も出来る。この世に生を受ければ誰しもが持つ事のできる「言葉」というツールは、使い方次第で真逆の結末を出す事が出来るのだ。特に日本語とは非常に難解で、ややこしく、まどろっこしい存在だ。誰も悪くないシステムエラーで自分の意図した方向とは真逆の方へ舵を切ってしまう事もある。自覚なく、言葉のナイフで人を突き刺し失血死させてしまう事もある。桜は散るから美しいのだと誰かが言っていた。儚いものにこそ美を見出すのは日本人の特性なのか、人間の本能なのか。

そう私は、言った。言葉というものは、直接的ではなく、間接的に人を死に追いやる事が出来るのだ。それを、私は知っている。


先日、私と同じ年齢の一人の女性がこの世を立った。22歳だった。正直なところ、私は自分の興味のある事はとことん調べ尽くし、これでもかという情報を手にしているものの、興味のないものに関しての知識は薄い。実は、申し訳ない事に今回の件があるまで私は彼女の事を存じ上げなかった。プロレスという競技(という表現が正しいのだろうか、そのレベルには無知である)も詳しくなかったし、テラスハウスという番組も名ばかりは知っているものの一度も目にした事は無かった。故に、今回の件で世間が大騒ぎしている事で初めて彼女の名前を知り、その裏には隠された事情があったのだという知識も手に入れ、そんな無知な人間ながらも多少の情報を探索する事にした。

誹謗中傷。

それが彼女を追い込んだのだと知った。海を挟んだ国では、今回のようなケースは少なくないのだという事も知っていた。つい先日、同じようにこの世を立った方も親日を表に出す事により、自国で酷い言葉を投げ続けられていたのだと聞いた。結果的に人を殺めるツイートをした人は120%悪い。だけど、その人を特定して「人殺し」と中傷している人もいる。仮にそれで最初のツイート主が亡くなれば、特定厨・「人殺し、責任を取れ」とリプライをした人もまったく同じ事をしているのだという事に気づいて欲しい。予備軍だ。結局は終わる事のない、どうどう巡り。悪循環。

人間は、正義を手にしたと思い込んでいる時が一番恐ろしく、残酷になる。何故なら自分の行動や発言はすべて正義の名のもと行われていて、何も間違っちゃいないという不可思議な自信に満ち溢れているからだ。そのせいで、罪悪感が芽生えるどころか、相手を成敗してやっているのだというつもりになっている。だから、止まる事をしらない。キリもない。どんどんエスカレートしていく。ただのアンチよりも、正義厨、正義を盾にした結果的なアンチの方が怖い存在だと思う。ジャスティスハラスメント(=正義によって精神的・肉体的苦痛を与える事)という、非常に矛盾な言葉が存在する。それは、正義を盾にして、正義を剣にして、対象を傷つける事に対して快楽を見出してしまっている非常な危険な状況だと思うのだ。然し、今の世界にはそれが溢れかえっている。新型コロナウイルスで大量発生した自粛ポリスとやらもその一環だろう。

言論の自由。日本には、個人が各々自らの意志を持つ事も、それを言葉として発信する事も許容されている。私は、その権利を最大限に利用して、こうして自らの心の内を書き残しているし、別のアカウントでは自らの感じた事を綴り続けている。

日本語というものは非常に難解な言語だとも言われている。例えば、英語で言う「I」それを一つ取っても、日本語に翻訳すると「私」「あたし」「あたい」「わたくし」「うち」「自分」「俺」「僕」「ワイ」「ワシ」「わて」等、様々な言葉に言い換える事が可能なのだ。「You」一つ取っても、「君」「貴方」「あんた」「お前」「我が」「自分」「貴様」「己」…方言を織り交ぜると、数えきれない。最近の若者がよく使う「やばい」という言葉は、いい意味でも悪い意味でも取り敢えず「やばい」で通じる。つまり、それだけ単語が多岐に渡り、そのうえ一つの単語にすら多様性があるという事はその選択ひとつで相手に対する感情も、受け手の感情も、変わってしまうという事だ。無論、欧米にも方言のような「訛り」というものは存在する。然し、日本国の方言というものは日本国内ですら言葉が通じない程に多くの種類がある。なんなら、私の実体験を織り交ぜて語るとすれば。私は大阪の端に生まれ、端に育った人間だ。だが高校からは市内に通学していた。片道二時間。勿論同じ日本語。関西弁。大阪弁。それでもなお、通じない言葉があるのだ。狭い日本。狭い大阪府。それでも通じない言葉があるのだから、さぞかし日本語を学ぶ外国人は大変な事だろう。


言葉は人を殺す。救う事もできるし、反対に勇気づける事も出来る。傷つける事も、殺す事も容易い諸刃の剣。特にネットが普及した今、人間は何も考えずにその「言葉」を呟けるし発信できる。簡単に呟いた言葉が誰かの人生を左右するし、心の健康も左右する。気軽にリプライが出来て、引用リツイートができて、簡単に匿名ツールに投函できる。簡単に嘘を広める事もできるし、悪い噂を流す事もできる。誰かの知らないところで、その誰かの悪口を言う事も安易だが、相手に直接悪意を向ける事も出来る。対象者に直接エールを送る事も出来れば、刃物を送り付け刺す事も出来る。便利だが、その分つくづく怖い世の中だと思う。便利というのは、恐怖と表裏一体である。


私はなにかと昔から目立ちやすい。そういう星の元に生まれたのかもしれない。小学校の頃はクラスの中心にいて学級委員や生徒会に入っていたし、中学校の頃は先輩に目をつけられて呼び出されたり、クラスの端にいた癖に何かといって教師と揉め事を起こしたりしていた。部活では、代々揉めると有名な部だったせいもあったのだろうが、校長が出てくる程の騒ぎになった派閥問題の中心にいた。(決して私が原因な訳ではない) 高校に入ってからは何故か授業のリーダーのようなものに勝手に任命されていたし、生徒の仕事の範疇を超えて講師の補佐をやっていた。専門では私が不満をぶつけた事がきっかけでひとつの単元の授業が崩壊した事もある。(これに関しては担当教師が悪かったと別の講師からお墨付きを貰っている。そしてそのきっかけもまた日本語だった) 専門に入った時からポートレートモデルのお仕事を始めたので、自ずと人前に出る事となる。趣味として始めたはずのTwitterは気づけば大規模になっていて、ファンですと言って下さる方もいればアンチもついた。

そんな中にいると、無論、人からの善意を受け取る機会も多ければ、逆に悪意を受け取る機会も多い。「死ね」「消えろ」「排除したい」「ブス」「失せろ」そんな小学生並の言葉が直接送付されてくる事もあれば、知らない所で言われている時もある。仕事用のメールアドレスに延々と南無阿弥陀仏と羅列された文章が来たり、所謂恐怖画像が添付されてきた事もある。それとは逆に、「かわいい」「好きです」「感謝しています」「救われました」という嬉しい言葉が送付されてくる事もあれば、直接「貴方と出会えて良かった」「今まで生きてきてくれて有難う」と伝えてくれる方もいる。前者に傷つけられ、後者に守られる。

私が幾度となく伝えている事。言葉は、人を救い受け止めるセーフティーネットにも、優しく包み込み他所よりぶつけられる攻撃から護る繭にもなり得るけれど、それと同時に使い方を誤ると人を刺し殺すナイフにも、ミニガンにもなり得るのだ。誰にでも持てる。誰にでも使える。日本で生まれ育てば大抵の人が持つのが日本語で、世界に生まれそれなりの教育を受ければ大抵の人が使えるのが言葉。だからこそ、その使い方を間違ってはいけないと思う。無意識のうちに殺人を犯しているなんて、恐ろしいではないか。直接的に肉体が死に向かわなくとも、心を殺してしまえば同じである。肉体は生き永らえつつ心は死んでいるだなんて、なんて無残な人生なのだ。


小学生の時の私の友人は、心を殺された。その子は大人しい性格で、当時の私とは真逆だった。だけど凄く仲が良くて、彼女が複数のクラスメイトに虐められている時には私が守っていたし、逆に私がストーカーまがいな行為をされた挙句告白されて困った時には彼女が相手に説教をしてくれた。持ちつ持たれつ。全然違うはずだったのに、何故か仲が良かった。彼女とやり取りした手紙もいまだに部屋に残っている。

中学の時。クラスも部活も離れ、私も少し道を逸れかけていて接点が薄くなった。逢えば話すが、ずっと一緒という訳ではなかった。その子には当時彼氏がいて、しばらくして私はその「彼氏」と「男友達」として仲良くなった。別れた、振られた、でも何故だか分からない。そう言われた私は、理由を聞けばいい、聞かないと後悔するよと進言した。それが間違いだった。私のこの後悔は一生消えないだろう。私が直接彼女に聞けばよかっただけなのに、私はそれをしなかった。彼女が振った理由は、言葉によって深く傷つけられたからだ。おそらく彼は冗談のつもりだったのだろう。だけど、彼がその冗談のつもりで吐いた言葉に彼女は心を殺された。きっと、その後しつこく迫られた彼女は更に傷ついただろう、結果的に私が傷つけたのと変わらない。彼女はみるみるうちに衰弱していった。優しく、かわいらしい笑顔が消えた。卒業式の日、私は彼女と写真を撮った。彼女の目に光はなく、マスクをつけたまま弱弱しげに目を細めて笑っていた。きっと心の底からの笑顔ではなかっただろう。私は、上手い言葉を掛ける事は出来なかった。

私がその一連の真実を知ったのは、私も同じように彼に心を殺された後だった。酷く後悔した。彼女の連絡先はなく、唯一の手段であった彼女の幼馴染には「今のあいつを人に会わせたくない」と拒否された。だけどそれと同時に、「あいつはずっとお前に有難うって言ってた。守ってもらった事、隣にいてくれた事、ずっと感謝してたし嬉しかったって。今も、ずっと言ってるし、お前と話したいとも言ってたけど、俺は今のあいつが刺激を受ける事が怖いから会わせる事はできない」とも言われた。私は涙が止まらなかった。一度だけ幼少期に訪れた彼女の実家を探す事も考えたが、謝罪をしても許される事ではないし、過去の話をする事で逆に思い出させる事も嫌だった。もしかするとそれは、私の逃げ口上だったのかもしれない。それでも彼女は、私を憎みはしなかった。恨みもしなかった。ずっと、私に感謝していたと。その彼女の優しさと、消えはしない私たちの思い出はとても大切なものだ。あれから10年が経った。私は一度たりとも忘れた事はないし、忘れる事もないだろう。それと同時に、彼女の心を殺した彼を赦しはしないし、結果的に加担した自分を赦しもしない。


無意識下の発言。悪気のない言葉。大した意味も考えずに行ったスワイプにより打ち出された文字。それが、対象人物にどれだけ多大なる影響を及ぼすのか少しばかり考えて、生きていきたいものだと思う。

もしも私がこの世を去る時があれば、おそらく、今までの事をすべて綴り遺すだろう。受けた言葉、起きた事。小さな自叙伝のようなものをパソコンに残してから、この世を立ち、後世に歩くのが夢である。



Photo...さいくる(cycle_v)







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