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[第9回] 感情ミラーマン

2020年も、最後の月を迎えた12月あたま。毎度毎度、スーパーに流れるジングルベルも、街を彩るイルミネーションも、定番の音楽と同時に流れるフライドチキンのCMも、クリスマスケーキのポスターたちも、数多もの年末大型音楽番組も、年明けを期待させる派手な装飾たちも、痛々しいほどに師走を強調してくる。

去年、年を越したことなんて昨日のことのように覚えているし、その前に年を越したときのことも昨日のことのように覚えている。だけど、確かに365日という月日は確実に過ぎ去っているし、1年間という時間をわたしは確実に過ごしたのだ。信じられなくても、動かすことは神にもできない事実なのだ。


そんな中、わたしはありがたい事にここしばらく友人との縁に恵まれている。Twitterで「最近遊んで写真を撮ったのに載せていない写真」を一気に載せたとき、それをしみじみと実感した。数が多い。あくまでわたしにしては、の話だから毎日のように友人らと酒を酌み交わしているようなパーリ―ピーポーに比べたらちんけなものだろうが、コミュニケーション能力が格段に低く、毎日遊べるだけの金を持っているわけでもなく、また、友人を自分で誘うこともできないというわたしにしてみればそれは衝撃的だった。

わたしはそれをしみじみと実感したあと、

とツイートした。


わたしは鏡のような存在だから、わたしを大切にしてくれる人をすごく大切だと思うし、愛してくれる人を愛したいと思う。わたしに敵意を向けてくる人間にはわたしは敵意しか向けないし、わたしのことを嫌いなのだろうなと思う人間のことは嫌いだ。もちろん、人間の脳というのはそんな単純明快なものではないので、愛してくれない人間を愛してしまうことはあるのだけれど、わたしはひどく無駄な行為だと思ってしまう。

例えばそれが自分にメリットがあるのならば良いと思うし、わたしみたいにヲタクとして生きている人間なんていわば永遠に認知されない片思いなのだから、自由に感情を抱けるし、勝手に愛して、勝手に背中を向けられる。相手から供給されるものに、勝手に一喜一憂できて、それに人生を支えられている。それはある種ひどく自分勝手な感情だけど、それをそもそもこちら側の存在すらも知らない相手にはなんの損もないから、自分自身がもし幸せならばメリットしか生じないと思う。

だけどそうじゃない、実際に目の前で自分と向き合って生きる人間に対して、自分を愛してくれない人を愛すというのはなかなかに困難な行為である。自らにナイフを向ける相手を抱きしめるだけの勇気というのは、そう簡単に出るものではない。わたしには、できない。嫌われている相手に本当に肉体を刺されるのは許せるかもしれないけれど、心だけを刺されるのは許せない。だからわたしはインターネットの世界で殴られ屋さんをしているけれど、ずっとわたしはそれにカウンターパンチを返していたけれど、それもまた無駄だと気づいた時からわたしを殴る人たちの存在はわたしの中で透明になる。無意味で、透明な存在。

ネットの世界というのはすごく簡単にできていて、相手を消そうと思えばブロックボタンを押せばハイ完了。もちろんブロックしてもしても粘着してくる、よく分からない亜種っていうのは一定数存在するものだけど、わたしの知らないところでわたしのことを好き勝手呟くっていうのは酷く無意味な行為ながらもわたしの精神衛生上なんの問題もない。そもそも探るから傷つくのであって、探らなければ傷つかない。これを言うときっとキッズたちは調子に乗るのかもしれないけれど、まあ、度を超えるとどうにかなっちゃうと思うし、公式が「攻撃的な内容を含みます」っていう注意書きの元非表示にしてくれるというすごく楽なコンテンツにしてくれるお陰で色々叩かれ屋さんに得な世の中になっていると思うから、気をつけてください、てな感じで。

逆に言うとわたしはわたしのことを嫌いな人には敵意を向けるし、なんなら敵意を通り越して感情自体を失うし、一切の愛情は注がない。だから、その分有り余るのだ。わたしは今までの生育環境的に常に愛情が枯渇して生きている人間だけど、感情ミラーマンが愛情に枯渇しているということはつまり自らの愛情を注ぐ相手もいないというわけで、単純計算すると母数が少なければその分一人当たりに受け渡すものは濃くなるし、わたしにとってその相手はすごく貴重な存在だから大切にしたいと思う。

基本的にわたしは博愛主義だし、今では温厚なほうだと自負できるし、めったな事がない限り人を嫌いにはならないし、凪のような存在(だと思いたい。) だけど、だからこそ波が出来るとそりゃあもう、反動は大きい。好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌いだ。それが当たり前だけど当たり前じゃない世界で、もしかするとその感情と思い込みが激しいわたしは異質に映るのかもしれない。だから、味方にしたいし敵にしたくない、と言われるのかもしれない。本当のところは、分からないけれど。


いまのわたしには人の幸せを心の底から祝福する余裕なんてどこにもないと思うけれど、それでもわたしはわたしの大切な人を愛してやまないし、そんな人たちには笑っていてほしいと思うし、幸せでいてほしいと思うし、悲しみの海に溺れないでほしいと思う。

わたしはそうだなんて思っていないけれど、もしも仮に本当にひとりの人生の内訳がゼロサム理論で成り立っているのならば、つまらない不幸が重なって50になってほしいと思う。どん底に突き落とされて、自ら命を絶つような暗い闇には堕ちないでほしいと思う。笑い飛ばせるような不幸を重ねて、結果的に50になってほしい。一気に50キロを背負える人間は限られているけれど、1キロや500グラムを背負える人間は多く存在していると思うし、もしもその人が1キロや500グラムすらも背負えないというのならばその人には1グラムの不幸が積み重なってほしいと思う。

人生のすべてがゼロサム理論だなんて信じていないし、実際のところ悲しんでいる姿は見たくないけれど、もし仮に本当にそうだというならば、そうであってほしいと思う。タンスの角に小指をぶつけるとか、真冬にささくれが出来るとか、小さな忘れ物をするとか、存在すらも忘れていた本が実は破れていたとか、家計簿が1円合わないとか、大きい傘か折りたたみ傘か迷った挙句折りたたみ傘を選んだのにまあまあな雨だったとか。なにがその人にとっての1グラムで、500グラムで、1キロで、50キロかなんて当事者にしか分からないし、当事者すら数字に換算するのは難しいかもしれないけれど、それでも、そんな1年経てば忘れるような、「些細なこと」だと思える不幸でゼロサム理論の半分を、天秤の片方を埋めて欲しいと思う。


愛されたい。だけど愛されるのも怖い。そんな状況でわたしが実際なにを願っているのかなんて誰にも分からないけれど、きっと人生やり直して愛されることを怖いと思わない人間になりたかった、が本当のところだと思う。それが出来るか出来ないかは別として、願望なのだと思う。

もしかするとわたしが思っているより相手はわたしのことを大切に思ってくれていないかもしれないけれど、あくまでわたしはわたしの尺度でしか物事を計れないし、受け取れないから、わたし自身が少しでも大切に思ってくれていると思い込んでしまった人たちを愛することを赦してほしい。もしかするとわたしの注ぐ愛情は相手にとっての愛情ではないかもしれないけれど、わたしはわたしの愛情を注ぐことしかできないから、わたしなりの愛情を目一杯注ぐことを赦してほしい。好きだよ、大好き、愛してる。そんな稚拙な言葉をストレートにぶつけることしかできないわたしを、どうか赦してほしい。面と向かって言うのは少しだけ照れるから、ネットでしか表現できない愚鈍なわたしをどうか赦してほしい。だれかに大切に想われること自体を願うのを、どうか赦してほしい。嗚呼、アーメン。



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