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2024年9月2日

昨日は息子を連れて実家へ。
父が100均で買ってきたスライムを息子に渡すと、2時間もくもくと集中して遊んでいた。
とても昼ごはんを食べるような雰囲気ではなかったので、具沢山おにぎりを拵えてそばにおく。
自分でキリの良いところを見つけて、小さいおにぎりを2つ摘んでいた。

いつも、食卓につかせても全くごはんを口にしようとしない。
そのことに毎日たいそうヤキモキしていたが、単にみんなで食卓を囲む時間が、イコール息子の食べたいタイミングではなかったのだな。
つまみ食いなら、いつもは一目見て「イヤ」と遠ざける炒り卵も自分から喜んで食べていた。

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ばあちゃんは、5分前に交わしたやり取りを忘れてしまうようだった。
2年前に脳梗塞をやってから、記憶があやふやになっては病院で処方してもらう脳の薬で少し改善する、というのを繰り返していた。
記憶が続かないというという自覚がはっきりとあって、認知症が進んで会話がままならない近所のおばあちゃんを見ては、自分もこうなるのかと恐れている様が、見ていて心苦しかった。

近頃のばあちゃんは、将来の自分の姿を憂うことは無くなった。
ただ淡々とここにいて、着替えをして、顔を洗い、ご飯と食べ、排泄をして、テレビを見、点繋ぎのワークをする。
「悲しむ」という回路がぷつんと音もなく途切れてしまったようで、忘れてしまうということにいちいち驚いたり自分に腹を立てたりしなくなった。

ばあちゃんは、別の場所に行ったのだ。
今にある大きな柱を背もたれにしてちょこんと座るばあちゃんは、白くぼんやりと発光して見え、まるで妖精のよう。

ばあちゃんは変わらず私の大好きなばあちゃんで、議論もできるし共感もしてくれる。
チャーミングでひ孫をよく可愛がり、帰る時は寂しがってくれる。
かわいいかわいいばあちゃんには違いない。
だけど、ばあちゃんはすっかり忘れる自分を受け入れたのだ、と思った。

その時が来たら、さぞかし悲しいだろうと思っていたけれど、心は案外落ち着いていた。
90歳だものな。
いつまでも、側にいてほしいけど、見るたび小さくなるばあちゃんを見ていると、現実を受け入れざるを得ない。

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