2つの全く異なる田んぼと、2つの全く異なる世界線と
澄み渡る青空の下
緑の田んぼが美しい。
幅にすれば約2mほどの畦(あぜ)を
堺に、2つの田んぼがあるのを
画像から確認できると思う。
畦の左側の田んぼは、仲間たちと
育ませて頂いている田んぼで
畦の段を降りたところ、画像右側の
田んぼは、別の方の田んぼ。
良いとか悪いとか
そういう次元の話では全く無い。
たった2mの畦を挟んで
2つの田んぼが余りに異世界で
畦の上から両方の田んぼを眺めながら
人間の現実世界と同じだな〜と
そんなことを思っていた。
2つの田んぼを見比べて
何か感じましたか?
「田んぼ」と言えば
見慣れているのは上の方の
びっしり稲が植っている方ではない?
(以前のわたしがそうでしたw)
パッと見た感じの違いは
稲がびっしり植っているか無いか?と
稲がびっしりの方は、よく見たら
水面にぷよぷよと何か浮遊してるw
稲がびっしりの方は
農薬、化学肥料、除草剤をまかれ
カエル、ミミズ、アメンボがいなくて
一般流通しているお米は
ほぼ、このように育っているはず。
経済をゴールとしているので
できるだけたくさん収穫したい、という
意図(期待)が、この稲と稲の
スペースから読み取ることができる。
一方、稲と稲のスペースが
空き空きの田んぼの方は
稲が心地よく育ってくれるように
稲と稲のパーソナルスペースを
一般の3倍ほど空けている。
もちろん、農薬や肥料、除草剤は
使わず自然農である。
パーソナルスペースを空けて
あげると、稲は力強く分蘖をし
1粒から40本以上の株になり
「一粒万倍」とはよく言ったもので
1粒の種籾から万倍近い米が成る。
結果的に、稲がびっしり植っている
田んぼと収穫高は変わらない
という現実。
いま、こうして画像で見ているから
2つの異なる田んぼがあることを
わたしたちは認識できているけど
わたしたちの現実世界も
この田んぼと同じで、全く異なる
世界線がある。
一旦、自分が右側の田んぼの
稲であることを想像してみてほしい。
生まれた時から、すでに
この環境だったとしたら
この世界があなたにとっては
当たり前の環境なわけで
このぎゅうぎゅうの田んぼの
一段上に、稲と稲のスペースが
空き空きの田んぼがあることを
下からは全く認識できないし
全く想像もできない。
なんだか息苦しさや
生きづらさを感じながら
その環境をつくった人間の意図を
知る由もなく、2mほどの高さの畔を
高い壁のように眺めている稲だ。
ただ、わたしたちは稲と違って
畔を登って、畦の向こう側が
どんなところなのか?
観に行くことができる。
そのときに初めて
自分が、実は、ぎゅうぎゅうな
世界にいたんだ、ということ
過剰にいろんなものを
与えられて、自生の力が
削がれていたことに気づく。
雨が降ったり
風が吹いたり
台風がきたり
いずれの田んぼも、起こる
現象に違いはない。
薬をまかれてスペースのない
田んぼで育った稲は、自生の力が弱く
現象の影響をもろに受けてしまうけど
スペースが十分な田んぼで
育った稲は、力強く根を張り
分蘖力も強く、自生の力が引き出され
現象の影響をほぼ受けないばかりか
それすらも力強さにしてゆく。
そんなことを、この異次元の田んぼを
観ながら思っていた。
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