相対を超越するとは 〜「対」から「体」へ〜
前日に書いた
【愛は相対を超越する】
の続き版のような内容になるだろう。
オタワ大学で成功した
「量子もつれ」現象の可視化が
まるで「陰陽の太極図」と瓜二つだったが
これはまさに、相対を超越し
「対」が「体」へと「和解=統合」したことを
顕しているように思えてならない。
はるか昔、人類が誕生し
「言葉」が発明されて
認知革命が起こって以来
「思考(自我)」が生まれ
真我との分離が起こった。
それがイコール、他者や世界との
分離を顕している。
自分の中の分離が強まると
それはそのまま、外側の世界で
まるで見せてくれるかのように
顕れが起こる。
たとえば、前回のnoteで紹介した
息子さんの将来を不安に思っていた
お母さんだが
あの顕れは、彼女自身の
自分への「自己不信」という
分離による顕れだ。
彼女の無意識下には
幼少期か成長期の、なんらかの体験で
「自己不信」という自我が生まれ
長年、親しい人間関係の中で
パターンになっていたのだろう。
それが、息子さんの不登校
引きこもり&非行にはしる、というので
ピークを迎えたのではないか、と思う。
息子さんの存在が、彼女に切実に
「終わらせたい」と思わせて
くれたのだろう。
彼女は
「自分の息子なのだから信じます」
という「息子を信じる」を通して
己を信じる、と決めたのだ。
この時、無意識下で
何が起こっているのか?は
わからないし、説明もできないが
彼女は、自己不信だった
自我と和解し、不信の自己との
対立を終え、包括して一体となった。
「対」から「体」だ。
いわば、この「自己不信」という
物語を終え、人生ゲームで言うところの
「アガリ」なわけだ。
この世界の「人生ゲーム」は
一般にある人生ゲームとはルールが
ちょっと違って
ゲームに参加した全員が同時に
「アガリ」になるのだ。
言うまでもない事実だが
最初に「アガル」と決めるのは
自分である、ということ。
これが、この世界のゲームの
からくりである。
そのとき、人間界にも
「量子もつれ」現象が起こる。
それがゲームの「アガリ」の
お知らせでもあるのだ。
赦せない自分、認めたくない自分
受け入れたくない自分、それらは
真我から分離して存在する「対」の自己。
それらの自分を、1つ1つ
そのまま、このまま赦し、認め
受容する。
包括してゆくのだ。
すると「対」は「体」となって
相対を超越する。
わたしがわたしを赦す
わたしがわたしを認める
わたしがわたしを受容する
愛へと還るのだ。
これらは全て、わたしたちが
愛から生み出され存在することを
思い出すためのプロセスだ。
生まれたのも
生きるのも
愛ゆえだ。
愛に帰依するのだ。
あなたが愛に帰依すれば
世界は愛で包括される。