どうでもいいことばかりの中で余計なことをしてみること
余計なことをしたんだろうか。
雨上がりのホームへゆっくりと電車が滑り込み、幾人かの人たちとともにドアから吐き出される。
誰かのためにとか、何かを良くするためにとか、そんな大層な理由があったわけじゃない。
駅前のコンビニエンスストアに寄り、みかんサワーを2本、左手に抱えてレジに向かう。
ただ、おかしな状況を見過ごせなかっただけなんだけど。
みかんサワー2本分重くなったリュックを背負い、家までの長い坂道をとぼとぼと歩く。
どこの職場にもあるのかもしれないけれど、人手が足りない分、誰かがより多くの仕事をこなさないといけない場合がある。誰かというよりも、みんなが、少しずつ負担を分け合って、なんとか凌いでいる。これも、よくあることかもしれない。
だけど、負担はケーキじゃないから、均等に切り分けるなんてことは難しい。ある一片の負担だけ、他の倍くらい大きくなっている時がある。
そのことに気がついてしまったら、付随する、他のいろいろなことも目についてしまう。
わたしが気がついたことに、どうして誰も気がつかないのか。どうして誰も、そのちょっとおかしな状況を、おかしいと思わないのか。どうして誰も、その人が抱えすぎている負担をもう一度分配しようと言い出さないのか。
わたしには、そのおかしな状況がおかしなまま放っておかれていることが気持ち悪かった。背中がむずむずした。
たしかにわたしは担当じゃないけど、目に入ってくるその「おかしさ」を、なんとかおかしくない状況にもっていくために画策したことは、間違いだったのか。
女性の多い職場にしてはさっぱりした関係性で働ける、すごく良い環境ではあるけれど、目の前の忙しさを理由に、笑って負担を被ってくれている人のことを知らんぷりするのは、やっぱりどうしても気持ちが悪い。
同情は、だめなんだ。
それは過去の経験から痛いほど思い知っている。
同情して尽くしてもいいことなんてひとつもない。
それは知ってた。
だから、今回は同情したわけじゃない。
何かを正そうとしたわけでもない。
大きな声で注意や叱責をしたわけでもない。
むしろ小声で、こっそり、お願いしてみただけなんだけれど。
ただ、自分が気持ち悪かったから。
けど、誰もが同じ考えなわけじゃない。
それも知っていたつもりだけど。
だけど。
目の前の忙しさがあれば、誰かが負担を強いられることは仕方がないと、本音では考える人がいる。
わたしがむずむずして気持ち悪いことを、そうでもないと思う人がいる。
むしろこの状況こそが、世の中を正しく映しているのかもしれない。
見えないところで負担を背負う人たちと、それを仕方がないと断じる人たち。
そういう人たちで世の中は構成されている。
でもそれも、そういう状況を作り出している、さらに上にいる人たちによって支配されているだけなんだけど。
結局のところわたしたちは、支配者によって作られた見えない囲いの中で、ふたつに分かれてあたふたと働いているだけ。
分かれた者同士が意見をぶつけ合ったって、支配する者が何かを変えようと思わない限り、何も変わらない。
それが組織であり、世の中。なのかなあ。
わたしが余計なことをしたって、その見えない囲いの中の分布図がほんのちょっと変化するくらいなのかもしれない。
それは、多くの人にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
でも。
どうでもいいことばかりの中で余計なことをしてみること。
それが、ほんの小さな抵抗。
みかんサワーを2本とも飲んでやるのも、ちっぽけな抵抗。