門を叩く音
また一関にいる。
東北に来るとなぜか『ここに居る』ということを記しておきたくなる。
ざっと手帳を確認すると6月以降に宿泊のある仕事に出たのは7回。目的地は岐阜、岩手、大阪、栃木、大阪、愛媛、岩手だ。さらにその中継地として岡山、桑名、豊田に泊まっている。
「宿泊のある仕事」と書くのは「出張」と書きたくないからであって、なぜ書きたくないかというと「出張」という言葉に義務感や事務的な冷たさを感じるからだ。仕事はできるだけ楽しく前向きな気持ちでやりたい。
だからといって自分のことを『旅する機械屋』などと表現したりする気はない。なぜって、僕のこれは移動であって旅じゃない。車窓の風景を楽しんでいるけれど、車外の世界と交わることがないから旅とは言えないと思う。
これに似た事はバイクでもある。
家を出て帰ってくるまで一度もヘルメット(フルフェイス)を脱がない時が、まずまずの頻度である。走行距離が百キロ以上に及んでも、そういう時がある。信号さえなければ足も着かずに帰ってくるに違いない。
僕は自分のそういう走り方をツーリングとは言えないと思う。
だから大体は「バイクに乗ってくる」と言って家を出る。
ちょっとしたニュアンスの問題だけど、そこを脚色することに羞恥心がある。
さて、今回は秋田の横手付近で一件の仕事をしてから一関入りした。横手にはあまり来る機会がなく、2年に一度程度だ。たぶん人生4回目の秋田。秋田までの道は、あまり通る機会がないからこその楽しさがあった。
高速から見える、まだ見慣れない秋田の景色は重厚だった。
稲刈まであと2週間くらいに育った一面の稲穂や、暑さの割には順調そうに実ったリンゴが見えた。数え切れない山々と美しい川。またその乾いた土手。付近に見える家屋も温暖な地域とは異なる建築様式だ。過ぎた時間を感じさせる古びた木材に貫禄を感じる。時間が許せばそこに降り立って、散策したいという気持ちになる。
横手といえば釣り漫画の金字塔『釣りきち三平』だ。
ストーリーに出てくるような清流が高速からも何本も見えた。
僕の故郷の富山にも清流は沢山あるけれど、あちらは流れが速すぎる。それに比べると秋田の川はゆったり流れているように見えた。ああいう川でゆっくり釣りができたら楽しそうだ。
僕が育った時代は、農薬を無茶苦茶に使う時代だったせいもあって『釣りきち三平』のなかにレイチェル・カーソンの「沈黙の春」的な戒めを感じることがあった。今日は秋田の自然を見ながらそれを思い出していた。秋田の自然は人工的な破壊から立ち直ったのだろうか。夜になれば蛍が飛んだりするのかな。
とある田んぼでは巨大なドローンを飛ばしていた。縦横1.5×1.5m、高さ80cmくらいのドローンだ。農薬散布用のドローンかと思うが収穫間近に農薬を撒くかな?実った稲を守るための薬剤があるのかな。まあ、どうであれ農家の人たちも必死に病害虫と戦っている。
農薬=悪と考えるのは理想論でしかないだろう。
それに消費される量からすると農薬よりもシャンプーや洗剤、歯磨き粉の方がずっと環境に悪いかもしれないのだ。
夕方前には秋田を離れ、岩手県内に移動してきた。
今日はとても蒸し暑い日だったから、少し寒さを感じるくらいの季節にまた来たいと思った。
晩秋の澄んだ空気の向こうの星を見てみたい。
何故か最近、星を見たいと思う。
植物の世話をマメにできるようになったり、星を見たいと思うようになったり、些細な言葉のニュアンスが気になったり、いよいよ僕もジジイの門を叩き始めたのではないか?という気がしている。
※植物や星、言葉がジジイの趣味ということじゃなくて、今までの自分とは別のフェーズに入ってきたのかなあ….という意味です。若くても植物栽培や天体観測が趣味の方もいますから。