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レ・ミゼラブル~松本にて

わしのレミゼ2021は、帝劇で始まり松本で終わった。

途中、博多と大阪で中断があり、松本もどうなることかと案じた中での開催。ほんとに、よかった。

さて、レ・ミゼラブルの物語は、主人公バルジャンの「聖」、ジャベールの「正義」、若者たちの「自由」という3つの信念と葛藤を柱に、ファンテーヌの「存在」、コゼットの「人生」、エポニーヌの「幸福」、マリウスの「個と公」といったそれぞれの疑問が水晶のように散りばめられて、とんでもないスケールの人間賛歌となっている。

物語の主軸となる脱獄囚バルジャンと追い続ける警官ジャベールだが、理生様※がジャベールになってから(原作でこの2人に年齢差があるかはわからないけど)、壮年のバルジャンと青年後期くらいのジャベールの2人の人生を賭けた対決の構図がわかりやすい。

青白い理性的な落ち着きをもつ川口竜也版に比して、理生様版は、理生様の根底にある抑えようのない熱さみたいなものが、秘かに野心に燃える新しいジャベール像を形づくっている。

なんでだろう、理生様ってどんな役を演じていても、どこか清冽だ。善でも悪でも一直線で迷いがない。「ミュージカル界のラスト・サムライ」と称される所以だろう。どこまでも澄んだ眼をした、稀代の声楽家である。

2人の年齢差をとっかかりとしたあらゆる「差」は、ファンテーヌの枕もとで文字通り取っ組み合うシーンで如実である。バルジャンの「若い奴には負けないガタイと技と体力」、ジャベールは「いいとこまで互角だけど最後にぶっ飛ばされる」。力の差、経験値の差。胆力の差。歴然である。

ジャベールは首を絞められて突き飛ばされるのだけど、これがまたけっこうな音を立てて叩きつけられる修羅場で、バルジャンとジャベールのその後の人生を通して有形無形に格闘し続けていく裏付けとして、完璧なまでに印象的。光夫さんも理生様もひたすら本気過ぎる。これを歌いながらやるってほんとに驚異。

対決を重ねた終盤、砦のウラ手で、縄を解かれたジャベールの「わからんぞ」に、バルジャンがその胸に手を当てて言い放つ「何もわかってないな」。生涯を法と正義にささげたジャベールの崩壊。

なんのために追い、なんのために追われるのか。次第に狂気をはらみ、神経が切れたような弦の音とともに自死に至る過程の説得力は、吉原光夫×上原理生のペアでこそ、より鮮明に迫ってくる。

今回、もう1つ気づいたことは、工場の縫子たち、また娼婦として生きる女たちと、民衆を束ねて革命に向かっていく若者たちを比べると、若者たちが圧倒的に青々していること。言い方あれだけど、時としてひ弱にも見えるほど、男たちが幼く、青い。

特にアンジョルラス、「これ下手したら(軍隊に)勝っちゃうんじゃないか」という堂々たる理生様版アンジョルラスから脱却した、芽を吹いたばかりの若木のようなアンジョルラスを筆頭に、蜂起する高揚、自覚、緊張、統制、その後に急転する状況下での不安、葛藤、敗北の恐怖が切実に伝わる。

女たちが現実を受け入れ、血を吐いてでも生きる道を選択するのに対し、若者たちがたとえ孤立しても、勝ち目がなくても、あるいは恐怖心があっても、「僕らは市民を見捨てない」と自らを鼓舞し、理想に殉じる。

この2つの異なる種を橋渡しするものは「理解」などではなく、「愛」かもしれない、などと(柄にもなく)思った。そして、この対比があってこそ、『レ・ミゼラブル』は成立する、とも思った。

『レ・ミゼラブル』は、許しの物語だ。「人を愛することは、神様のおそばにいることだ」という言葉を残して、バルジャンは去る。信仰が何かは体感できなくても、司教に深々と礼をするバルジャンの後ろ姿から、許し、許されることの尊さを知る。生きていていいんだ、という幸福な実感に満たされる。

物語と歌唱はもちろんのこと、音響(特に砦の砲撃)、装置、照明、大道具に小道具、子役ちゃんたちの活躍などなど、誰でも一度は観た方がよい秀作。次回(たぶん2年後)、お近くの地方公演がありましたらぜひ。あらすじを予習していった方がより楽しめます。

※理生様…初めて拝見した2011年版アンジョルラス。凛とした、まさに「若様」といった風情でした。以来、この方のことは「さん」でなく「様」付け。

#観劇レポ

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