『死ぬ瞬間』と悲しみ方
皆さん、死んだらそれでおしまいだと思ってるんですよねぇ。
そう言って、先生は私に本を貸してくれた。本には、『死ぬ瞬間』と書いてある。著者名は外国人で、死の世界について書いた本なのだろうかと私は思った。それとも臨死体験の話なのだろうか、いずれにしても非科学的な印象をその時は感じた。
遠くから先生の家に通うようになり、列車の乗り継ぎも駅からの道順にも慣れたのに、私が寄る場所は同じ建物内にあるスターバックスコーヒーか、その目の前にある画材屋だけだった。先生がその本を貸してくれたとき、私の状態はあまりよくなかったので、本も読めるかどうか分からなかった。
でも帰りの列車内から読み始めたその本は面白く、次の約束の日までには読んでしまって先生に返した。もう読んだのですか、と本を受け取った先生は、私に何の感想も求めなかった。私は本を返す日、先生がこの本を私に読ませた理由を知りたいと思っていたが、最後まで聞けなかった。何となく、それは自分で考えたほうが意味がありそうだと思ったのだ。
『死ぬ瞬間』には、人が死を受け入れるまでのプロセスが書かれていた。スピリチュアルな話ではなく、死を前にした患者たちへのインタビューを積み重ねて書かれた本だった。
本を読んでいる間は没頭していたことを先生に会ったあとで気が付いた。ああ、そうか、先生は私に何かに没頭させたかったのかもしれない、と考えた。けれども本を渡す前のあの言葉を思い出すとき、もしかして先生は渡す本を間違えたのでは、と考えるときもあった。死んでもおしまいではないんですよ、という脅しのようなメッセージと、死の受容プロセスについての本とでは、ちぐはぐしている。やはり気をそらせたかっただけなのかもしれない。
先生に初めて会ったとき、見透かされると思った私は自分を恥じた。ひどく緊張もし、翌日には高熱が出て帯状疱疹が出来た。先生は先生で、私がなかなか心を開いてくれなくて、とたまに付き添う母に話したが、私は何もかも先生に話していたつもりだったので心外だった。
季節が一巡りするくらいは、その先生のところへ行っていただろうか。あるとき飼い犬が死んだ話をしたら、悲しいのは当たり前ですね、という反応だった。私は言外に、悲しいのは当たり前だが、悲しみすぎるのは過剰な反応だと受け取れた。そしてそれが普通のことなのだと。私は、ようやく普通の悲しみ方ができる気がした。それは、死の受容プロセスでいう最後の段階に私が来ていることを意味していたと思う。
先生は、この段階が来るときのためにあの本を貸してくれたのだろうか。千里眼をもっていてもおかしくないような先生なので、ありうることだと思う。その後、失恋をする度にこの死の受容プロセスは参考になった。いま自分がどの段階にいるかを知るだけで、悲しみ方が上手になれると思っている。