見出し画像

いくつかの死骸

その朝は違和感があった。忘れ物はないか部屋をふりかえり、家に鍵を閉めて車に乗りこむ。目的地へ向かう途中、いくつかある信号機がことごとく青だった。寄る予定だったコンビニを通り過ぎてしまったが、流れを止めたくなかった。コンビニでは食べ物を少し買う予定だったが、なくても支障はない。走り慣れた道は信号機のない自動車専用道路に入った。

薄く霧がかかる中をしばらく走っていたが、先行車も対向車も見当たらない。私しか活動していないような世界に不安になり、車のオーディオを音楽からラジオに切り替える。どのチャンネルも電波が悪くノイズが多い。つながらない言葉が断片的に聞こえてくるだけだった。

前方の路端に黒い影が見えた。獣の死骸だろう。通り過ぎる間際、赤い肉片が視界の隅をかすめた。早朝、山へ向かって移動していると獣の死骸はよく見かける。遠く進行方向左手には、今日登る予定の山が見えてきた。山頂付近は白くなっているのがわかる。今のところ付近に雲はかかっていない。

自動車専用道路を降りて一般道路に入り今日はじめての赤信号で停車した。ノイズだらけのラジオを切り、視線を前方に戻すと、道路の真ん中に蛇が見えた。動きがないので、死骸なのかよく分からない。信号が青になり車を進めると、蛇も動き出した。蛇を車で跨ぐことになる。タイミング悪く轢かなければいいけど。近づくと、それは白い蛇に見えた。蛇のうえを通り過ぎたあと、ルームミラーで後方を見る。たぶん轢いていない。本当に白い蛇だったようだ。ライトを反射して白く見えただけかと思ったのだが。

蛇を踏む、という小説を思い出す。それは背筋がひゅっとするような物語だった。女が出てきて、あと何だったっけ。物語の不気味さだけは思い出せるけれど話の筋はちっとも思い出せない。蛇に関するあらゆる思考をやめようとした瞬間、ある予感を得た。その不吉さに心拍数が上がる。それはただの予感に過ぎないが、断片化された今朝の出来事がそれぞれ、波紋を増幅させ広げていく。

山に近づくにつれ、これから登る道に迷いが出てきた。今日はもうやめようか。いやでも、天気がいい日にもったいない。狭い山道に入り、引き返すタイミングを見失い続ける中、何体かの死骸を見かける。車もバイクも見かけないのに、あれはいつ轢かれたものたちなのだろう。引き返せないでいるまま、登山口に到着してしまった。すでに車が一台停まっている。その車に人はおらず、私よりもずっと早く到着していたようである。私は車を降りて、先行者の車にふれる。車体は完全に冷えきっていた。車の主は、昨日のうちに山に登り小屋で泊まっているか縦走でもしている人かもしれない。明るくなった空に、白い山が見える。私は靴を履き替えた。身支度が済むと身体は自動的に登り始めていた。

耳の奥が痛くなるほど空気は冷えていて、白い蛇の残像がちらちらと意識を横切りはじめた。眼は赤かっただろうか?いやそこまでは見えていない。柄はあっただろうか。つるっとした白い躯体しか思い出せない。それは、本当に私の見た映像だっただろうか?夜明け前の薄暗さで、私はなにか見間違いをしたのかもしれない。息が荒くなり疲れを感じた私は、滝が見えるところで足を止めた。黒い岩をまっすぐに落ちる白い流れが、薄暗い山の中で唯一の生命体として発光しているようだった。

衣服を調整してふたたび歩きだし、しばらくすると思考は分断し始めた。撹拌された考えや言葉はそれぞれのつながりを失い、意識の最下層に収まっていく。言葉は失われ、目に写る雪景色だけが私の意識に残る。自らの呼吸と、こだまする足音、衣擦れの音がビートを刻む。進むほど雪は深くなり、時折、雪が頭上の木枝から崩れ落ちると、シンバルの音が頭の中で反響する。先ほどから山路に沿うように小さき者の足跡が雪に印されている。その足跡を追うように進んでいると、調和を乱すように放置された一本のストックを見つけた。さらにその先に、リズムの崩れた人の足跡があり、その連続した先には滑ったような跡がある。視線を斜面に沿って滑らせた下方には、青色と黒色のかたまり。人が滑落していた。

叫んだかもしれない。鳥の羽ばたきで森は一瞬、騒々しくなった。よく見ると、山路の足跡は硬く凍っているので、滑り落ちて数時間は経過していると推測できる。先ほどから斜面下の青い上着の人物は動かない。呼びかけてみるも反応はない。蛇を見たあとからの胸騒ぎの理由がこれだと、この出来事を簡単に結びつけたくはない。意識をすると誰かに見られているような気がしてくる。これはこれで偶発的なアクシデントなのだ、と自分の気持ちを落ち着ける。通報する前に生存確認が必要だろうと考え、背負っていたザックを下ろし、青いかたまりに向かって降りていく。途中、もう一本のストックを見つける。拾ったほうがいいのだろうかと考えて、やめる。今必要な行動ではない。青い上着を着た人物に近づき、慎重に自分の足場の安全を確かめる。積雪の下に凍った岩があれば自分も下に滑り落ちるかもしれない。その人物は男性のようだった。顔色からして絶命しているのは素人でも分かったが、私は手袋を脱いで男の鼻の下に手を差し出す。呼吸のないことを確かめたあと、頬にふれてみた。それは、数時間前にふれた登山口の車と同じ感触だった。

画像1



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?