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『両性具有の美』への眩暈
白洲正子さんの文章をはじめてまともに読んだのは、文庫本の『両性具有の美』をタイトルから衝動買いしたときだった。
それまで白洲正子さんの名前は視界の隅に入ることがあったが、何となくマダムたちに崇められている殿上人のように思っていた。この本をきっかけにほとんど全ての著作物を読んだような気がするけれど、どれか一冊だけを入院生活(あるいは孤島生活)に持ち込めるとしたら、最初に読んだこの本を選ぶだろう。
本の中で白洲正子さんも言っているように、両性具有といいながらほとんど男色についての話である。男が女を兼ねる美についての話であって、女が男を兼ねる美については触れていない。どころか、男は女になれても女は男になれないことが分かった、と述べている本でもある。(最近は読み返していないので筋違いなことを言っていたらあとで書き直すかもしれない)
女は男になれない。
今言うとまた女性蔑視な話だと思われそうだけれど、実感をもって確かにそうだなと思う。女形だとか男役だとかの演劇界だけの話ではなく。
どうしてだか、完璧に女を表現した女形はいるのに、完璧に男を表現した男役は見当たらない。女社会に見事に同化する男(オカマ)はいるけれど、男社会にいる女は男になりきれない。それは男社会側の優しさと拒絶でもあると思うし、肉体的な限界である気もしている。
肉体。
少年期の、こどもが大人になろうとするその変わり目にのみ表出する色気がある。男でも女でもないような独特な色で、成熟した大人たちにはない、卑猥さや淫靡さの全くない、ただ美しいだけの色気がある。
その美しさを、愛もなくただ性的に搾取しようとする大人の浅ましさがただただ醜い。その大人は男たちだけではない。女たちが中心になって作るBL、やをい、というコンテンツを私は昔から受け入れられなかった。たとえ創作物だとしても、賛美している対象を汚しているようにしか見えなかったからだ。
かの有名な『ベニスに死す』の、美少年タッジオを演じた、ビョルン・アルドレセンについての記事を読んだ。
大人の性的欲求を少年少女に向けるおぞましさと、それでも美しいものは美しいと思ってしまう自分の浅ましさに眩暈。