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小説 「シャークス・ラブ」 【全篇】

第一章 「ジョーズ'87 復讐篇」


「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 
「1985年12月7日」 
「スター・ウォーズ」
「1978年6月30日」

 得意げな顔で男が質問に答えていく。

「じゃ、ニューヨーク1997は?」 
「1981年7月10日。あの映画はーー」

「いいよ、映画についての解説は。村上、その特技凄いんだけど、いったい何の役に立つのさ?」と喫茶店の席の向かいに座っている佐藤が呆れた。 

「意外と役に立つもんだよ。合コンとかの席で、いいきっかけ作りにはなる」
「それだけの為に大切な脳を使うのは意味あるの?」
「意味? 人生なんて無駄なことだらけだろ。いや、無駄なことこそ意味がある」と自信満々に村上が言う。

「なにそれ? 分かるような分からないような。あ、それよりさ」佐藤は村上が何か得意気に話し始めると、決まって話の腰を折る。

 生まれも育ちも違う村上と佐藤の付き合いは大学時代からだったが、出会ったその日から、まるで小学校からの同級生のように二人は意気投合時した。

 以来、十年ほどの月日が経つが、その頃からの二人で過ごす際の居心地の良い雰囲気や関係性は変わってはいない。佐藤が話の腰を折るのはいつもの事なので、怒るわけでもなく村上は話を聞く。

「あの子はどうなった? 何ちゃんだっけ? あー、なんだっけ? ほんと出てこないな…」

「ああ」と村上は歯切れの悪い返事をする。

「なんだよ。ああって。あ、そうだ、葵ちゃんだ。最近話に出てこないけど、上手くいってんの?」

 村上は返事をせず、テーブルに置いてある煙草を取り火をつけ、コーヒーを啜った。それを見て佐藤はすぐに勘付き、うな垂れる。

「はあ? そのリアクション、マジか? もう別れたの? 何があったのさ?」

 村上はふぅと、煙吐き、まるで推理小説の主人公が犯人を突き詰めたかのような真剣な顔をした。

「佐藤。俺は、前世鮫かもしれない」
「は? さめ?」佐藤は突拍子も無い問いに思わず顔を歪めた。

「いいか。鮫はある事を哺乳類で初めてしたんだ。なんだと思う」
「鮫だろ? ジョーズの、あの。哺乳類で初めて? いや、分かんないな」
「少しは考えろよ…」村上は少しムッとした表情で言う。

「無駄な事は考えない主義なの」
「まあいい。鮫はな、歴史上初めてセックスをした種なんだ。凄くないか?」
「凄いっちゃ、凄いけど、魚だろ? そもそもできるの? どこ情報?」
「ディスカバリーなんたら」
「なんたらって。で、鮫が前世っていうのはどう言う意味なのさ?」
「歴史上初めてセックスをしたって事は、どうしてもその行為がしたくて堪らなかったからしたって事だろ」
「…ということになる、のか?」
「なるさ。そうに決まっている。だから俺は前世が鮫だったんだ」
「それは、つまりセックスが好きだと。いや、それは随分前から知っているけど、葵ちゃんの件とどうつながるのさ」
「だから、前世はって言ってるだろ? いまは前世鮫だった人間だ。人間には困ったことに慣れという最大の難点がある」
「つまり?」
「つまりだ」

「つまり…」と言いかけたところで、佐藤はまた村上の思惑が分ってしまい、溜め息をつく。

「飽きたって言いたいの?」
「ああ、という事になるな」

 呆れ顔の佐藤が肩を落とした。

「また? ほんとお前っていつも続かないよな。毎度毎度」

「いや。こちらの言い分も聞いてくれ。これは皆に当てはまる事なんだ。誰でも付き合い始めの頃は楽しい。何でも楽しい。だけど、三ヶ月も経てばどうだ。やる事は一緒じゃ無いか? デートの場所も大して変わらず、セックスの内容も大して変わらず。 刺激を求めて、例えばおもちゃとか使ってみるとしよう。だけど、それもすぐに飽きてしまう。 そうこうしているうちに、他の女もいいなと思ってくる訳だ」
「訳だって、言われても。じゃ、別れりゃいいじゃないさ」
「そこだよ。佐藤の言う通り、すぐ別れればいいんだ。だけど、不安な訳」
「不安?」
「この先、可愛い子と出会える保証なんてどこにある。そんなの誰も保証してくれないし、そんな保険も売ってない」

 佐藤は腑に落ちない顔をした。

「保険て、お前…でもさ、もう飽きたんだろ? それは、彼女のこともう好きじゃないって事じゃないのさ」

 村上は煙草の火を消すと、もう一本取り出し、火をつける。

「そこなんだ。そこで、その子の事を好きか自問するわけ。好きというか、正直セックスはしたい。したいから付き合ってる。でも、そのセックスが飽きてきた。でも、したいものはしたい」

 佐藤は右手を掲げ「ちょ、ちょっと待て。混乱してきた。で、何が言いたいのさ」村上を制した。

「何が言いたいかが分かってたら、苦労はしない。でも簡単に言うと、セックスに飽きたから別れたいど、できなくなるのは嫌だから別れたくもない……ってこと?」
「馬鹿じゃないのさ。俺に聞くなよ。自分のことだろ? それに流石に失礼だろ、葵ちゃんにさ。セックスしたいだけじゃないだろ? 付き合うってさ」

「…いや、正直にそれだけだよ」と村上は自信に満ちた表情で言う。

 呆れて物も言えず、佐藤は口をぱくぱくとさせるが、何とか、「はぁ。じゃあ、別れなよ」と言葉を振り絞った。

「でも、次の子は? そのまま彼女ができなくて、セックスできなかったら、どうするんだ?」

 佐藤は、お手上げと言わんばかりに軽く天井を見上げ、「埒が明かないな、まぁいいさ。いつものことだけど。ま、頑張ってよ」と作り笑顔を向けた。

 突如、店内に携帯音が鳴った。レトロ感漂う喫茶店にはマスターがいるが大抵奥にいて、呼ばない限り出てこない。客もほとんどがいない為、携帯の音は良く鳴り響いた。村上は携帯をジャケットの内ポケットから取り出し、応答する。それは彼女の葵からだった。

「葵? どした? うん……うん……」

 佐藤が悪いことをした訳ではないのだか、村上の本心を聞いていた手前、悪くも無いのになぜか罰の悪そうな顔をして窓の方を向いた。

「……ん? え! ちょ、ちょっと待とう。いや、電話でそんなこと急に言われても……うん……いや……わかった、いや、でもさ」

 話の内容までは聞こえてこないが、みるみる青ざめていく村上の顔色が、葵からの知らせが悪い内容であることを物語っていた。

「そか……いや…でも一回ぐらいは……今度、あ…」

 村上は携帯を見つめ、通話が切れたことを確認する。佐藤は眉を上げ、村上を伺った。

「葵ちゃん、何だって?」

「……って」と村上は俯いたまま力なく呟いた。

「え? 何?」
「……別れようって」
「別れる? そう、か……いや、でもさ。丁度別れたがってたんだしさ。いいじゃないさ、な」

 村上は俯いたまま、返事をしない。変に気まずい沈黙の中、佐藤がコーヒーに口をつけた瞬間、「わかった!」と村上が両手でテーブルを叩きながら叫んだ。

 その声と仕草の大きさに驚き、佐藤が咳き込む。

「なんだよ急に。何がわかったのさ。あれだろ、元々したいだけの彼女だったら別れてーー」

「いや、違うんだ。いま分かった。もの凄く好き、いや愛していたんだ、葵のこと」

 いつも突拍子も無いこと言う村上には慣れていたつもりの佐藤だったが、余りにも的外れの返答に目を丸くぱちくりさせる。

「落ち着けって、どうしてそうなるのさ」
「やりたいだけの相手だと思ってたけど、こんなにぽっかり心に穴が開くってことは、好きだったんだ」 
「だ。って言われてもさ。好きでないって思ってたけど、いざ振られたら、好きだった。てこと?どゆこと?」
「そう。本気で好きだったんだ」
「ただえっちしたい相手ではなくて?」
「そんなことはどうでもいい」
「じゃ、鮫だなんだってのは?」
「人間は心だよ。愛の無いセックスに意味なんてない」

 佐藤が心底呆れて反論すらする気が失せたタイミングで、今度は佐藤の携帯が鳴った。

「もしもし? あ、恵子ちゃん、どしたの? あ、そうなんだ。そか、んー、少しだけ待ってくれる?」

 佐藤は携帯を手で押さえ、少し考えこんだ後、「こんな状況だから無いとは思うけど、合コンなんて行かないよな?」と村上に尋ねる。

「行く」

 間髪入れず村上が答えた。目を瞑り、首を横に軽く振りながら、佐藤は合コンへ二人で参加する旨を伝える。

 村上は穏やかな表情で窓から外を見つめながら、冷たくなったコーヒーを啜った。

第二章 「新たなる希望」

 合コンまでには時間があると、村上はレンタルビデオ店「スマッシュ・ヒッツ」に来ていた。大手ほどの規模ではないローカル店。しかしローカル店ならではの店長の独断と偏見により選ばれた独特なラインナップが村上は気に入っていた。

 時代はDVDに移り変わろうとしていたが、アナログ派の村上はビデオコーナーを物色している。村上はレンタルビデオ屋の雰囲気が大好きだった。その冷静な表情からは分からないが、映画に囲まれているだけでアドレナリンが放出され、興奮が収まらない。

 初めはお気に入りの俳優やジャンルを元に選んでいた村上だったが、監督によっての違いや面白さを見出してからは、監督を中心に選んでいる。スコセッシ、スピルバーグ、バートン、レオーネ、ジャームッシュ、と次々にパッケージを見ては、あらすじを読み、内容の想像にふける。歩きながらビデオを見つめている村上の周りはビデオ屋から、戦場、異世界、ビルの中、広大な荒野と切り替っていく。その舞台の中を想像したキャラクター 達が村上の目の横で演技を繰り広げていく。

 景色はニューヨークへと変わり、村上はウッディ・アレンのコーナーで立ち止まった。「アニー・ホール」 のパッケージをじっと見つめる。何度も繰り返し観ていた作品だが、毎回思わずを手にしてしまう。ビデオ屋でのルーティーンとして、パッケージに手を伸ばした時だった。村上ではない別の手が同時にパッケージを掴んでいた。隣に視線を送ると、一人の女性が同じようにこちらを見ていた。髪は短めで、緩めのパーマをかけている。どこかボーイッシュな雰囲気もあるが、その大きめな目と唇に一瞬にして村上の心は奪われていた。

 「あ、ごめん!」
 「ごめんなさい!」

 思わず、同時に声を発し、慌てて手を引く二人。気まずい沈黙の後、「どうぞ。これ観たことあるんで」と村上がしどろもどろに答える。

 女性は暫し考えた後、「面白かったです? これ?」と言い、パッケージを示しながら上目づかいに村上を見つめた。

 質問をされるとは想定してはいなかったが、「面白いどころじゃないよ。ウッディ・アレンが好きなら最高傑作。何が面白いってね、まずは時間軸が…」 と思わず話し始めた。自分の好きな映画となると、初対面であろうが、目を輝かせ、堰を切ったように魅力を伝えてしまう癖がでた。特に好みの女性の前ではいつも以上に饒舌になるのだがら、本人はその事には気づいていない。

 ふと我に返り彼女を見ると、あっけにとられている。しまった、と我に返った村上は説明を中断した。

 「って、ごめん。そんな説明求めてなかったよね。つい…」

 「あはは」と堪えきれず、彼女は吹き出す。笑われた事に村上は口をへの字に曲げた。

 「そんな笑うこと無いだろ」
 「ごめんね。でも、いきなりそんな熱く語られるとは思ってなかったから。好き?」
 「えっ?」

 突然の「好き?」発言に戸惑う村上だったが、それはすぐに勘違いだと分かる。

 「映画。好きなんだね?」
 「あ、ああ映画ね。ま、まぁね」
 「そんな好きな人のお勧めなら観てみようかなぁ」
 「いや、どうだろう。人それぞれ好き嫌いはあるだろうから…」

 人に自分の好きな映画を薦める時は、強気になる村上だったが、好みの女性に対しては好かれたい為に弱気になることもまた、本人が気付いていない癖の一つだった。

 「なに急に弱気になってるの? やっぱりお勧めできない?」
 「いや、そんなことないよ。でも内容的には…」
 「はっきりしないなぁ。面白くないんだ?」
 「いやいや、面白いよ。面白いに決まってるだろ」
 「観て、損しない?」
 「する訳がない」
 「絶対?」
 「絶対!」

 「じゃ、借りてみるね。ありがと」と彼女は笑顔でパッケージを持ち、颯爽とレジへ向かった。ぼーっと女性を見つめる村上は名前を聞くのを忘れた事を後悔し、すぐに追いかけた。しかし、レジ付近で彼女の隣で親しそうに笑顔を向ける同年代の男性の姿を見て、足を止めた。

 「そうか。そうだよな…なにやってんだ、俺?」と心の中で呟き、店の奥へと戻っていく。

 落ち込みながら店内を歩く村上に二人の人物が 突然馴れ馴れしく肩を組んできた。

 「村上ぃ〜、なにアレ? 浮気相手?」

 ビデオ屋の店員の細田と太田だった。太め ' の店員が細田で 、細い店員が太田という苗字とは真逆の二人だ。歳は村上より三つ程上だったが、常連として通ううちに映画の趣味も合う事もあり、プライベートでも意気投合する仲になっていた。

 「違うよ。単に映画紹介しただけ」
 「ほんとかよ? それにしてはやけに熱く語ってたじゃん」と太田が疑いの眼差しを向け、無口の細田も頷き同意する。

 「違うってば」
 「葵ちゃん大事にしねぇと逃げられちゃうぜ」

 村上は振られた事を思い出し、無言で肩を落とす。

 「ん? 何かあったの? 葵ちゃんと」

 お喋りな太田に知られると、仲間内にすぐに知れ渡るのが分かっていた為、躊躇する村上だったが、遅かれ早かれである事も分かっていた為、諦め、二人に振られた経緯を告げた。

 「そなの? マジかぁ。でも、無理してた所もあったから、いいじゃん」
 「無理?」
 「なに? 気付いてなかった? 自分相当無理してたじゃんか」
 「そうかな? どの辺が?」
 「葵ちゃんの好きな映画は?」
 「タイタニック…」
 「だべ? 100人の女子に聞いたら100人がそう答える映画じゃん」
 「つまり…?」
 「つまり、彼女、映画に興味なかったじゃん? あったとしても世間で流行ってるのぐらいだろ知ってるのって。選んでる時、一度でも観たい映画の候補言われた事ありますか?」

 細田も同意し頷く。的を得た太田の意見に何も言えない村上。

 「だから趣味合わない子って時点で無理してたじゃん。ってこ と」

 村上は腑に落ちない表情で、「でも、趣味が合う合わないだけではないだろ、付き合うって」と反論したが、どこかで聞いた話だなと首を傾げた。

 「じゃ、何が合ってた?」
 「……身体の相性?」

 冷ややかな目で二人は村上を見た。

 「やっぱり最低だな、お前」
 「ああ、最低だよ。でも、事実は事実。ウッディ・アレン先生も同意してくれるはず」

 細田と太田は、上を向き、想像して納得する。

 「ま、いいんだよ。今夜の合…」と言いかけた所で、合コンの事がバレたら無理やりにでも参加してきそうだと思い、村上は言うのを止めた。

 「今夜、なに?」
 「いや、何でも無い。って、ほら向こうで可愛い子が何かキョロキョロしてる ぜ、店員さん」と指差した。

 太田と細田は指された方向を見るや否や、競い合いながら、我先にとその子を目指し向かって行くが、太田は去り際に「コレでも観て元気出せよ」と返却されたビデオの中から、一本のビデオを村上に手渡した。

 ビデオを確認するとタイトルには、「ハリウッド感動の巨乳作 パイパニック」と書かれている。辺りを見回した後、村上はあらすじを読みながら物語の内容の妄想を始めていく。

 合コンの相手を待っている時間が苦手だと、村上はあらためて実感している。見たことが無い相手に期待するも、裏切られた経験が多々あったからだ。特に女友達の可愛いと言う言葉ほど信じられないものは無い。自身が一番可愛く思われたいから自身より可愛い子は連れてこないのは定跡だが、本人はそんな裏心は無いと言い張るのも嫌だった。

 今回もどうせ裏切られるのだろうと思ってはいる のに、 心のどこかで期待してしまう自分がいて、ソワソワしてしまうのもまた嫌だった。

 しかし、そんな事を言っていても出会いは無く、呼ばれた合コンにはそつなく参加している。

 男性メンバーは佐藤と清崎、そして自分。清崎は佐藤の会社の同僚で、清潔な身なりにおしゃれな眼鏡と、いかにもモテそうな風貌だった。一 度だけ話した事があるが、この見た目に反してゲスな内面を持っていてくれたら助かるのだが、見た目同様に爽やかな男であった。

 「清崎来るって何で言わなかったんだよ?」と村上が佐藤の耳元で囁いた。

 「言ったら来た? あくまでも数合わせだってのは認識してよ。今回はあくまでも恵子ちゃんと俺が仲良くなるのが目的なんだからさ。もちろん、その他は二人に任せるけどさ」
 「分かってるよ。けど、清崎いたら恵子ちゃんも持ってかれちゃうぜ。もろ恵子ちゃんの好みだろ」

 清崎を見て、佐藤は急に不安そうな顔になる。そんな佐藤を見て、村上は首を軽く振り笑みを浮かべた。

 映画だとこの合コンに元カノの葵が現れるなどの展開になるのか、と村上が想像を巡らせながら、最近流行りだした創作系居酒屋で待っていると、程なくして、女性陣がやってきた。そこには村上が予期していなかった、もう一つ展開が待っていた。

 恵子、髪の長めの女性、そして最後に入ってきた女性を見て村上は思わず自身の目を疑った。女性も村上を見て、目を細め、思わず、「あっ、ウッディ・アレン!」と声を出した。

 女性は先程ビデオ屋で会った、あの綺麗な女性だった。マジ? ほんの二、三時間前に出会ったばかりなのに、流石にこの展開はでき過ぎだろう、と村上も心の声がでそうになった。

 二人を見て佐藤が指を交互に指し、「えっ? 知り合い?」と声をかける。

 「さっき…」と村上が言いかけた所で、「知り合いかと思ったけど、違ったみたい。声出して、ごめんね。気にしないで」と女性は皆に伝えた。

 彼氏がいる所を見られたからなのか、どんな思惑で知ってないふりをしたのかは分からなかったが、怪訝な表情で村上も言葉を飲む。まるで推理物の映画で殺人現場を見たのに、事情があり犯人とアリバイを口合わせしなくてはならないキャラクターの心境だ。

 「そっか。ま、皆、座って、座って。とりあえず飲み物何にする?」 佐藤が場を繕った。

 飲み物が運ばれ、佐藤の乾杯の音頭で合コンが開始する。

 自己紹介から始まり、他愛もない会話が進む。村上の予想通り、恵子は清崎を気に入ってしまい、もう一人の恵子の同僚の寧々と清崎の取り合いになっていた。佐藤は盛り上がる三人の会話に必死に食い込んでいく。

 図らずとも村上は溢れた例の女性とゆっくり話せる機会を得た。女性 の名は二階堂まなといった。話を聞くと、恵子とは仲良い友達という訳ではなく、こちらも人数合わせで来たとの事だった。村上はビデオ店の事を言わなかったまなの事情を探り始めた。

「知り合いだったの… 何か不都合だった?」

 まなは少し考える素振りをした後、他の女性たちを気にする素振りをしながら、小声で話始める。

「…えっと、そんな事ないけど、ほら、合コンに来て知り合いだと、何か変でしょ?」
「それだけ? ビデオ屋で一緒いたの彼氏? だったら心配しなくていいよ。そんな事言いふらす意味なんてない。それよりも、そんな事する男だって思われた方がショックだ」
「彼?」

 まなは上を見つめ思い出す仕草をした後、「違う、違う、彼じゃないよ、あの人。えっと、単なる友達」と伝えた。

 村上は疑いの眼差しを向ける。

「いいけどね。友達だろうが、彼だろうが」
「絶対信じてないでしょ、その目付き。それにたとえ私がそんな人だとしても、何でショックなのかな? そんなに気になる?」と悪戯っぽい笑顔をした。

「い、いや、そういう事を言ってるんじゃない」と動揺を隠せない。

「信じる信じないはお任せしますけどね。ウッディ君」
「ウッディじゃない、む、ら、か、み」
「はいはい、ウッディ君」

 会話で自身のペースに持ち込む事が得意なはずの村上だったが、まなに対してはなぜか裏目に出てしまう。何とか話題を変えて、劣勢な状況を打破しようとした時、「二人で抜け出そっか」とまなから思わぬ提案を受けた。

「待ってくれ、どういうこと? まだお互い会ったばかりだ」

 まなは、手にするミモザを一口飲み、村上を指さした。

「ウッディ君の目的は何? 合コンで気に入った子がいたら、連絡先聞いたり、一緒に抜け出したいってことだよね?」
「それは…確かにそうだけれども」
「で、ウッディ君も、あたしもお互い気に入ってるでしょ? だったら、ゆっくり二人で話した方が良くない? 元々お互い数合わせな訳だしね」

 歳下のまなに積極的に言われる事に多少の抵抗はあったものの、嫌な気持ちもしなかった。

「ああ、君が大丈夫なら、抜け出そう」
「まなでいいよ。ウッディ君」

「だから…」と言いかけた所で、名前を訂正させる事は諦め、村上は頷き、まなに耳打ちした。

 そこからの二人は「007」の一シーンの如く、他の四人の目を掻い潜り、息を合わせ、一人づつ鮮やかにその場から去っていった。話に夢中だった残りのメンバーが、二人がいなくなった事に気づいたのは会計の際にそれぞれの席に置かれた彼らの分の支払いを見た時だった。

 十月にしては暑さが残る夜の道を、村上とまなが走っている。

「ちょっ、ちょっと待ってくれ…走る必要あった?」と村上が止まり、息を切らしながら言った。

「だってほら、悪いことした後って逃げたくなるでしょ?」とまなも立ち止まり、村上に笑顔を向ける。

「確かに。スパイ映画だと定番だけれども。って、トム・クルーズじゃないんだから、もう、無理だ」
「体力無いなぁ、ウッディ君」

 息を整え、二人は歩き出す。不思議な沈黙が続き、村上がそれを破った。

「良く考えるとやっぱり変だ」
「変?」

 事が上手く運び過ぎ、村上はまなの事をどこか疑っていた。失恋した事実は恵子には伝えてはいなかったが、佐藤経由で聞いた恵子が気を使い、なまをあてがってくれたのかと思い始めていた。

「恵子ちゃんに何か言われた?」
「なにそれ? 言ったでしょ、数合わせで呼ばれたって。 だから、恵子さんの事ほとんど知らないよ。何が変?」
「いや、会ってほんの少しなのに、こんな可愛い子が一緒に抜け出してくれるって、現実的ではない。それに正直に言うと、何が気に入ってくれたのか分からない」
「ネガティブな発言だなぁ、ウッディ君。人は見た目じゃないよ。あえて言うなら、目かな」
「目?」
「そ。ビデオ屋さんで語ってた時の目が素敵だった」
「えっ。そんな変な目してた?」
「変じゃないって。暑く語る目が良かったよって話。それに…」

 まなはしばらく夜空を眺め、「駆け引きを楽しみたいっていう人もいるけど、私は違うの。そういうのが、めんどくて」と言った。

「め、面倒?」村上が目をぱちくりさせる。

「そ。抜け出す前も言った事に近いかな。言葉の駆け引きをして探り合うより、身体を重ねないと分からないことのほうが多いでしょ? だったら、気になったら、まずは寝てみる。変…かなそういう考え? 嫌?

 女性で自身と同じ考えを持つ人は始めて会い、村上は戸惑いを隠せない。

「い、嫌じゃない。同意しかない」

「良かった」と、まなは安堵の笑顔を浮かべた。

 道路の奥を見ると、ラブホテテルのネオンサインが光っている。村上はそれを指さしながら、「じゃ…行く?」とまなに問う。

第三章 「ホット・ショット」

 村上と佐藤は、古びたラーメン屋「福龍亭」のカウンターでラーメンを啜っていた。ラーメンにカツを載せた名物の福々ラーメンが気に入り、二人はいつしか常連となっていた。店の角に設置されたテレビからは野球中継が流れている。バッターがホームランを打ち、歓声が湧く音が聞こえた。

「え? やっちゃったの?」佐藤は思わず麺を吹き出しそうになるのを堪えた。
「ああ」
「どゆこと? こっちが恵子ちゃんの事で助けが必要な時にいなくなるしさ」
「ああ、それに関しては謝るよ。恵子ちゃんもはやっぱりダメだったのか?」
「この顔みれば分かるでしょ? 挙句の果てにまなちゃんもいなくなってたと思ったら、やっちゃったって、なんなのさ」
「気持ちがごちゃごちゃしてたから、すっきりさせたかったしな」
「気持ちじゃなくて身体でしょ? 昨日があれだけ人生終わりだぁみたいな顔しといてさ…そもそも、葵ちゃんを好きだって言ってたのはどうなったのさ?」
「好きだよ」
「ん? じゃ、まなちゃんは好きじゃないってこと? でもえっちしちゃったの?」
「いや、まなも好きだよ」
「ん? ん? どゆこと? 結局、どっちが好きなのさ?」
「現時点ではどちらも好きだ。そもそも、誰か一人を好きでなければいけないなんて誰が決めた? 結婚にしたって宗教観でしかないだろ? 宗教が無かったら一夫多妻制だって、その逆だって有り得た訳だ。人類に取って一人の人を好きになる事が幸せなのか? 映画だってそうだ。あなたの一番の映画は何?って質問されるだろ? あれが一番困る。好きな映画なんて山ほどあるし、その時々の気分によって好きな映画なんて変わるじゃないか。違うか?」
「論点ずらされて、都合のいい言い訳にしか聞こえないなぁ。それに好きって倫理観どうのというよりも…まずさ、好きになったら、その人の事しか浮かんでこなくない? そうだ、一度目を瞑って考えてみなよ」
「目を?」
「いいから、騙されたと思ってさ」

 村上が渋々目を閉じる。

「ほら、考えてごらんさ。どっちかの顔が浮かんでくるっしょ?」

村上は目を閉じたまま首を横に振った。

「いや、二人の裸の姿しか浮かんでこない」
「愛おしくなるぐらい最低だね」
「とにかくだ。葵も好きは好きだが、今はまなの方への気持ちが大きいよ。人生、次に進んでかないとな」

 TVから中継が聞こえる。《ここで西川盗塁だ。どうだ? セーフ、セーフです。西川、これで今季七回目の盗塁成功となります》

「なんだよそれ? で、まなちゃんのどこに惹かれたのさ?」
「さぁ?」
「さぁってどゆこと?」
「強いて言えば可愛い。性格がどうのとか言うけど、所詮見た目だ。かわいいか、かわいくないか、それ以上はない」
「もう言うことないよ」

 佐藤、何かを思い出し箸を止める。

「あ、そうだ。じゃ、もう立ち直ったみたいだから、大丈夫だとは思うけど…」
「何?」
「いやさ、昨日が二人が消えた後、来たんだよ」
「誰が?」
「葵ちゃん。偶然だろうけど、あの店に来たの」
《さぁ、松崎ツーストライクと追い込こまれています》
「しかも男連れ。席は離れてたから良くは見えなかったけど、結構いちゃついてたなぁ。あれが多分新しい彼なんだろね」
《アウトー! 松崎三振です!》

 佐藤が、ふと隣の村上を見ると、一点を見つめたまま固まっていた。

「え? あれ? 嘘。 人生次に進むって。この話の流れで、それはまずかったの?」「え? あれ? 嘘。 人生次に進むって。この話の流れで、それはまずかったの?」

カウンターの向こうで新聞を読んでいた親父が新聞越しに「何がまずいって?」と、二人を睨みつける。

「あ、いや、ラーメンじゃなくて」

 佐藤は苦笑いをして取り繕う中、村上の携帯が鳴った。

「もしもし? あ、岩本さん、ご無沙汰してます。ちょっと待ってもらっていいですか?」

 村上は手で悪いというジェスチャーを佐藤にしながら席を立ち、店の外へと出ていった。

「どうしたんですか?」

 電話の相手は映画プロデューサーの岩本 だった。村上は映像監督として普段は生計を立てている。

 映画好きは、高校の文化祭で映画を撮った事をきっかけに撮る側への興味へと変わっていった。バイトをしながら、自作の映画を映画祭へ出すもいつも入選止まり。企業PVなどの映像を仕事として作りながら、次回作の台本を書来はじめるが、映像監督としての仕事が忙しくなり数年が経ち、映画監督にはまだなれずにいた。

 岩本は映画祭で知り合ったプロデューサーで、以前の村上の短編映画を気に入って、以来、度々連絡をくれていた。

「どうしたんですかじゃないよ。最近全然連絡して来ないから、どうしたのと思ってな」
「すいません。最近仕事が忙しくて」
「そうか。でも、いまの仕事って企業PVとかだろ? もちろん生きて行く為仕事しなきゃならないのは分かるけど、映画はどうした? 脚本書いたら送るって言ってたのどうなった?」
「……いま書いてるんですけど…中々纏まらなくって…もう少しなんですけどね」

 村上は嘘をついた。仕事が忙しいという事は事実ではあったが、ここ一年台本は一行も進んではいなかった。

「村上君ももうすぐ30だろ? そろそろ一本撮っておかないとな」
「ですよね…」
「ま、何にせよ脚本できたら連絡くれよ。もちろん内容次第だけど、良い企画は探してはいるからさ」
「ありがとうございます。はい…ですね……じゃ、また連絡します」

 村上は俯きながら電話を切り、「言われなくたってさ…」と呟いた。

 村上は気がつくとビデオレンタル店「スマッシュ・ヒッツ」にいた。好きな映画に囲まれる事で現実逃避しているのだが、現実逃避している事も、結局それが映画を作らなくてはと、自身を追い詰めていく事にも、まだ気づいていない。

 そこへ店員の細田と太田が背後から声をかけてきた。

「良かったべ、この前の」
「まだ観てないよ」

 細田が勧めた「パイパニック」を帰宅後、すぐに鑑賞して思いの外楽しめたのだが、それ以外の普通の映画でも細田のお勧め作品は当たりが多った為、変な悔しさが込み上げ、素直な感想を控えた。

「そもそも『パイパニック』って。まず題名からしてパクリだろあれ。オリジナルじゃないと。俺はオリジナル映画が好きだし、オリジナル映画撮るよ」
「例えばどんなの考えてんだよ?」
「例えばだ。凄い美人とかは出てこなくて。野郎ばっかり出てくる映画。コンビニの店員と…そう、レンタルビデオ屋。あるレンタルビデオ屋で起きる、店員とのくだらない日常の話とかだな」
「『クラークス』じゃん」
「いや、そうか。違う、えっと、じゃ、仕事をクビになった大学時代の男女四人が共同生活をしていく中で」
「『リアリティ・バイツ』な」
「それじゃ、今度は男だけが出る。しかも、そいつらは全員ギャングで。そいつらが強盗を」
「して、その中に裏切り者がいてって…この先も言おうか? ったく、どこがオリジナルなの? 完全にパクリじゃん」

 村上は開き直り、興奮した様子で「ああ、そうだよパクリだよ、だけどさ、大体、オリジナルって何だ。スピルバーグにしたって、『インディ・ジョーンズ』は『アフリカの女王』のパクリだし、タランティーノの『レザボア・ドッグス』だって『友は風の彼方に』のパクリだろ。ただ、誰も知らない映画からパクってるから、皆気づかないだけじゃ無いか」と告げた。

「だから、村上もパクっていいって訳じゃ無いじゃん。そんなの、人が泥棒したから、俺も泥棒していいって言ってるようなもんじゃんか」
「違うよ。 俺の場合は、インスピレーションとオマージュだ。映画を見て、感じた事に対して、尊敬の意味を込めて、俺の映画に取り組むって事だ」
「それがパクりって言うんじゃ?」

 呆れた様子で細田と太田が顔を見合わせた。

「ま、「パイパニック』絶対楽しめるから、それ観て慰めればいいじゃん」
「もう、慰める必要もない」
「どういう意味?」
「どういう意味も何も、彼女ができたからだ」
「え?もう、できた? この前葵ちゃんと別れたって言ってたばかりじゃん」
「できたものはできたんだから仕方ないだろ」
「何でお前ばっかり。 不公平じゃん! マジで!」
「いや、そんな事言われてもな」
「じゃあ、もう葵ちゃんには未練無いんだな?」

 村上は何も答えない。

「……まぁ、お前はそういう奴だよ」

 細田が二重顎を揺らしながら頷き同意した後、何かを見つめ気まずそうな表情をした。細田の見つめる先を太田も見て思わず「あっ…」と声を漏らす。

「どうした?」と言いながら、村上も二人の見る先を見つめると、そこには元カノという存在になった葵の姿があった。

 葵も村上に気付き、近づいくる。細田は気まずそうに、突如忙しいふりをしてその場を去っていく。

 葵は気まずそうな雰囲気は微塵もなく「元気?」と声をかけた。

 女性とはそういう生き物だ。別れた瞬間、いや、別れようと思った瞬間から、相手の存在はなくなるのだ。葵の声のトーンを聞き、過去振られた相手たちの事を思い出した。

葵への思いを引きずっていた村上は精一杯作り笑いをし「ああ、元気だ」と声を振り絞った。

「そっか。ごめんね」

 村上は女性のこの言葉が大嫌いだった。謝るぐなら、振らないでくれとの喉まで出かけた。

「何を? 仕方ないよ。でも、せめて会って話してくれたらなとは思ったよ。だってそうだろ、あんな突然電話で言われてもさ。分かるよ、会ったら気まずいのも。でも、その気まずさを込みで相手に伝えるという礼儀も必要だ」

 自分の意志とは関係なく言葉が溢れてくる。頭では冷静に振舞おうとしても、感情に押し負け、伝えきれなかった想いが次々と出てくる。

「それに肝心な部分がーー」
「葵!」

 村上の言葉を少し離れた店の奥からの男の声が遮った。

「あ、いま行く」

 村上が知りたかった別れる事になった原因を悟った。別れ際にもう一度「ごめんね」と言い、葵は去っていった。

「…なんだよ。結局そんなんか」と呟きながら、はっきりとまだ心の中にいる葵の存在の大きさを噛み締めた。そこにはまなの存在すら無くなっていた。

「どしたの? どこか上の空な感じ」

 村上の部屋でくつろいでいたまなが問う。

「ん…何でもない。仕事…仕事の事だ」と取り繕う村上だったが、頭の中では葵の事でいっぱいだった。

「そっか…ならいいけど」
「…まなの前の彼はどんなだった?」
「えっ? どうしたの急に」
「いや、なんとなくだ。あ、そう、この前『 恋人たちの予感』っていう映画を観たからだ」

「どんな映画?」
「男と女は友達になれるかっていうテーマの映画」
「友だちね…なれると思うけど」
「いや、なれないだろう。下心持ってない男なんていないよ実際」
「そうかな? そんなこと無いと思うけど」
「そう思わされてるだけで、男の頭の中なんて酷いよ実際」
「ん? 村上君も他の女の子はそういう目で見てるの?」
「見てる」
「最低。でも、正直で嫌いじゃないけど」
「だから、ちょっと気になっただけさ、まなの過去。言いたく無かったら無理にとは言わない」

 まなは一瞬躊躇する素振りを見せたが、上を向き指で何かを数える始めた。

「いままで付き合ったのは五人。短い人で1ヶ月、長い人で二年だよ。前の彼がその二年向き合った人。サラリーマンで妻子持ち」と業務連絡の様に簡潔に述べた。

 村上は予期せぬ返答に戸惑いをみせ、煙草を手にする。

「え…あ、そうなんだ」
「何か引っかかっる?」
「いや、何も…」と言いながら煙草に火を付けようとするが、動揺からか、中々ライターが付かない。見兼ねたまなが別のライターを付け差し出す。

「ん…ありがと」
「でも、意外だな」
「なにが?」
「村上君、そういうのに興味無いと思ってた」
「い、いや、何となくだよ、何となく」
「だから、何か嬉しい」と言い、まなははにかんだ。

 過去の男達への嫉妬心からか、独占欲からかは分からなったが、なまの表情を見た村上は煙草を揉み消し、まなに覆い被さる。

 しかし、いくらまなと唇や身体を重ねても、思い出すのは葵の唇や身体だった。

第四章 「フィールド・オブ・ドリームス」

 田舎町の小さな駅の脇に設置されている公衆電話。公衆電話の硝子から漏れる薄暗い光が辺りを照らしている。その光を目指し一人の少年が何かを呟きながら、必死に自転車を漕ぎ向かっていた。

 少年は公衆電話の横へ無造作に自転車を止め、中へと入る。ズボンのポッケから取り出した百円玉を取り出し、受話器の上に載せると、今度は一切れの紙を取り出し見つめた。そこには電話番号が書かれている。

 番号を見た瞬間、自信がこれから行おうとしている行為を想像し、恥ずかしさの余り逃げ出したくなったが、ここに来るまでずっと考えてきた想いは止められないと、意を決し、再び紙を広げ番号を見つめた。

 番号を見つめるだけで、少年の鼓動が高まっていく。ゆっくりと百円玉を受話器に入れた。暗記するほど見た番号だったが、間違えないよう一つづつ確認しながら、ボタンを押していく。踏切音がなり始め、たった二両の電車が駅に向かって近ずいてくる。

 踏切音、電車の音、そして番号を押す度に高まる心臓の音が混じり合い、少年の緊張が最高潮に達した時、電車は通り過ぎ、少年は番号を推し、静寂が訪れた。それは時間にすれば一瞬の間だったのだが、少年には酷くゆっくりと感じた。急に訪れた後悔の念に受話器を置こうとするが、受話器から着信音が聞こえた。慌ててて受話器を耳に充てた。もう後戻りはできないと目を瞑る。

 受話器からは女性の声が聞こえた。

「はい篠崎ですが、もしもし?」

 声の感じから、それは期待した人とは別の人物だった事を察し、何度も練習をした台詞を振り絞る。

「僕、京子さんと同じクラスの村上と言いますが、京子さん…いらっしゃいますか?」
「京子ですか……」

 時間は夜の八時を過ぎている。不審がられ、繋いでもらえないかもしれないという村上少年の心配を他所に「呼ぶのでちょっと待ってくださいね」と母親らしき声が答えると保留音に切り替わった。

 第一関門を突破し安堵していると、思っていたよりも早く受話器の向こうから「もしもし?」と京子の声が聞こえてきた。

 緊張が解けかけていた村上少年は不意討ちを食らい、頭が真っ白になり言葉が出てこない。

「…もしもし?」

 軽い深呼吸をしてまるで少年漫画の主人公が最後の必殺技を繰り出す直前の様な覚悟を決め、声を振り絞った。

「……もしもし、京子さん? 村上だけど」
「えっ! 村上君? どうしたの?」
「え…あ……あの……」

 沈黙が流れる。

「…もしもし?」

 沈黙によって、何かを悟り、京子の声質が驚きからそわそわした感じへと変化していた。

「突然ごめんね……あのさ……」
「…なに?」
「えっとね…あの…僕、君の事がす……………」と口に出した時点で少年は冗談では無く確実に心臓が止まったのを感じた。

「え?何…? 村上君?」

 少年の心臓は再び動きだす。

「好き…そう、好きなんだよね…えっと、だから、つ、付き合ってくれたりしないかな?」

 情緒も何も無く、ストレートな言葉を振り絞るのがやっとだった。

 受話器越しに聞こえる小さなノイズだけが暫く続いた後、京子も困った声で「……ありがとう。でも…ごめんなさい」とシンプルに答えた。

「だ、だよね…うん。ありがとう、答えてくれて…」
「ごめんね…」
「いや、こっちこそ、ごめん…というか、ありがとう」
「うん……じゃ、切るね…」

「あ! うん、じゃ!」演劇の主人公から我に返った少年は慌てて受話器を置く。

 少年は深い、深い溜息を吐いた。振られた悲壮感と、やり遂げた達成感が混じり合った複雑な表情で「振られたんだな…」と呟いた。

 村上は朝日を浴び、ベッドの上でゆっくりと目を覚ます。

「なんで今頃あの時の夢なんか……」

 いつもの喫茶店で、佐藤は小説を片手にコーヒーを啜っている。向かいでは村上が憮然とした態度で伏せている。佐藤は村上を一瞥し、視線を小説に戻すと「で、どうしたのさ?」と興味が無い態度で聞く。

 村上は伏せたまま、葵との遭遇や夢の事を伝えた。

「ふーん、そか」

 佐藤の余りにも素っ気ない態度に村上は起き上がる。

「なんだよ、その態度は。これでも、こっちは真剣に悩んでいるんだ」

 佐藤は本を閉じ、机に置くと、軽い溜息を吐くと「あのさ、悩んでるって言うけれど、一体何を悩んでるのさ? 葵ちゃんに気持ちがあるけど、彼がもういてショック? でも、村上だってもうまなちゃんと付き合っているじゃないさ? 夢の事が気になる? 何を気にするのさ? 初恋の人もまだ忘れられないってこと?」と佐藤が捲し立てる。

 村上は佐藤の口撃に降参するかのように両手を上げる。

「分かった、分かった。確かにそうなんだ。佐藤の言う通りだよ。だけどな、佐藤だって例えば小説読み終わってすぐに捨てないだろ?本棚にしばらく取っておいて、読み返したくなる時だってあるだろ?それと同じで気持ちってそんな簡単に整理できないものだろ?」
「いや、読み終わったらブックオフ持ってくよ。読み返すことはないさ」
「…冷たいやつだな」
「冷たいのはどっちさ。以前自分で言ってたこと忘れたの?」
「ん?なに?」
「所詮過去の女は…ってやつ」
「ああ、過去の女はオナニーのネタになっていく。それは真理だ。どの男もいまの彼女を想像してはしないだろう? なんなら、セックスの最中にだって思いだすもんだ」

 佐藤は深い溜息をつき「それだよ、それ。そんな事を言ってる奴がね、悩んでるって言われてもね」と告げる。

「それとこれとは別さ。なぁ、俺はどうしたらいいんだ?」

 佐藤は再び小説を手に取り読みだし「知らないよ。好きにしたらいいさ」と村上を突き放す。

 村上が何かを言いかけた時、携帯が鳴った。それは葵からだった。

「あ、葵だ…どうしよ?」
「どうしようったって、出るしかないさ」
「ああ、だよな」と言い、焦りながら村上は電話に出る。

「もしもし?」

 村上と葵が付き合っていた当時通っていた、こじんまりしてはいるが、お洒落な雰囲気のイタリアンの店で料理を待ちながら、まず会話を始めたのは葵だった。

「ごめんね、突然呼び出しちゃって」
「いや、こっちも一度話しておきたかったからいいよ。それはそうと綺麗になったな」

 村上の突拍子も無い発言で葵は目を丸くする。

「あはは、どうしたの急に?」
「振られたのは認識しているし、今更口説いても仕方ないのは承知しているが、昔から嘘は言わないだろ? 今の素直な気持ちだよ」
「ほんとだ。 目が二重になってる」
「どういうことだ?」
「真面目な話しする時だけ二重になるの。気づいてなかった?」
「それは気づかなかったな」と村上は気づかない振りをした。
「で、新しい彼とはうまく言ってるの?」
「うん…」と頷いた後、葵は俯いた。

その様子を見て、村上が怪訝な顔をした。

「それにしては浮かない顔してるな」
「んーん、凄く優しいし、かっこいいし、うまくいってるよ」
「それは良かった。なんだ、惚気話をされる為に呼ばれたのか?」
「違うよ。ただ…この前会った時、正直、村上君の事も好きな気持ち残ってる自分に気づいちゃって。それに…」
「それに?」村上はにやけそうになる顔を必死に抑え、平然を装い聞いた。

「正直言うとね。今の彼、あっちの方がね。余り相性良くなくて…」
「あっち?」と言った後、すぐに察し、「ああ、あっちね」と言った。
「そ。村上君との身体の相性凄く良かったんだなって、思っちゃって」
「でも寄りを戻したいって話では無いんだよな?」
「ごめんね。それは無いかな。ただ、たまに会って、するのってどう思う?」
「つまりだ。セフ…って事か?」

 村上は明らかに動揺を隠せず思わず声が声が上擦った。

「セフって言うか、なんていうか。仲の良い友達で入れないかなって」
「ちょっと待ってくれ。いや、それは願ったりだけど。いや、そもそもなんで振られたのかを聞きたかったんだが」
「それ言わないと、だめ? 村上君はそんなの気にしないかと思ってんだけど」
「いや、だめじゃ無いが。そもそも」と言いかけたところで村上の携帯が鳴った。それはまなからだったが、村上は取るのを躊躇った。
「電話いいの? 取らなくて?」
「ああ、大丈夫だ。じゃ、今夜もこの後って時間あるのか?」
「うん」

 携帯音が鳴り止んだ。

 村上が自身の部屋で、鉛筆を持ち、机の上に広げたノートを睨んでいる。ノートには白い空間が無限に広がり、村上はそれを見つめただけで目眩が起きそうになっていた。

 背後のベッドに座り、本を読んでいたまなが「そう言えば、この前の水曜って何してたの?」と不意に声をかけた。

 水曜は葵と会っていた日だとすぐに察したが、動揺を隠すように聞こえない振りをする。

「電話全然出なかったでしょ?」
「ん? なに? 集中してた」と村上は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティの父親の様に惚けた態度をとる。

「水曜。仕事だったの?」まなが本を置き、尋ねた。
「あ、そう。仕事だ。今台本書いてて、気づかなかったよ」

村上は真っ白なノートを覆い隠すように掌を乗せる。そんな村上をまなはじっと見つめ「嘘ついてるでしょ?」と唐突に問い詰めた。

「な、何を根拠にそんなこと言うんだ?」精一杯平成を取り繕う村上に対しまなが平然と答える。
「鼻」
「鼻? 鼻がどうしたって言うんだ?」
「広がってるよ、鼻」
村上は椅子をくるりと回転させ、まなに向く。
「鼻が広がってるとなんだって言うんだ?」
「指摘されたこと無いんだね。嘘つく時、いつも鼻が広がってるよ」

 村上は慌てて鼻を押さえ確認する。鼻は確かに広がっていた。葵から指摘された目の件といい、今回の鼻の件といい、つくづく自身の表情に心情が現れる癖を恨んだが、なんとか誤魔化そうとすぐに気持ちを切り替えた。

「たまたまだ」
「違うよ。この前、冷蔵庫に入れといたアイス食べちゃった時も同じ顔してたもん。水曜、本当は何してたの?」

 まなは無言で村上をじっと見つめる。村上は思わず目を逸らし「何も無いものは、言いようが無い。台本を書いてて忙しかった。ただそれだけだ」と言い、見つめ返した。まなは村上の額から流れる一粒の汗を見ると「そんなに言いたくないなら、もういいよ。帰る」と言い放ち、部屋を出ていった。

 村上はまた真っ白な紙を見つめると、鉛筆で円をぐちゃぐちゃに書き散らし、頭を抱え「くそ…」と呟いた。

 むしゃくしゃする気持ちを落ち着けるのは映画しかないとばかりに、村上はビデオレンタル屋「スマッシュ・ヒッツ」に来ていた。しかし、映画を選ぶことさえ集中できず、パッケージを手にしては戻すことを繰り返している。

「万引きは犯罪ですよ。ちょっと事務所まで来て下さい」

 背後からの突然の声掛けに慌てて声を荒げ「いやいやいや、万引きなんて」と振り向いた先には店員の太田と細田の二人がいた。

「そんな慌ててどうしたんだよ。冗談に決まってんじゃん」
「冗談に付き合ってる余裕なんてないんだ」

村上が太田の言葉に対し、ムスッとした表情で答えた。

「その感じはまた振られたな」
「振られてなんかない。まだ」
「まだ…ってもう振られたのも一緒だろ。ま、同情はしないどな。なんだかんだ彼女いつもいてさ、こっちなんかもう何年いねーよって話じゃん。なっ」

 隣にいるビデオのパッケージを抱えた細田に同意を求めるが、細田は首を横に振り「俺はいるよ」と太田を突き放す。

「えっ!?」

 村上と太田は思わず続きの「その太った体型で彼女いるの!?」という言葉を呑み、細田をそしてお互いを見つめた。

「ま、とにかくだ。何があったんだよ?」

 村上は元カノとの関係、今カノに疑われた状況を渋々告げた。腕を組み、太田は開口一番、そりゃお前が悪いじゃんと憤慨した。

「ああ、分かっているさ」
「分かってねぇじゃん。なんで彼女いんのにセフなんて作る必要あんの?今の彼女、まなちゃんだっけか?まなちゃん大事にしたらいいじゃん」
「だから、分かっているんだ、そんな事は。だが、据え膳食わぬはってのもある。相手が迷惑だったら、こっちだってしない。望まれたから応じたまでだ」
「応じたまでだ。じゃないよ…結局感づかれて、振られたら意味ないじゃん」
「だから、まだ振られてはない」
「女の感って凄いの知らないの?絶対バレてるって。なっ」と細田に同意を求めるが、細田は細い目を更に細くし、じっと何かを考えている。

「ん?細田、どうしたん?」
「ポイントは、そこじゃあない」と呟いた。

「ポイント?どういう事だ?」

 細田は抱えたビデオのパッケージを太田に渡すと、細い目を見開き、村上を指差した。

「お前がイラついたのはまなちゃんに疑われたからだけじゃないだろ?ポイントは台本が書けていないって事だ。お前はいい客だし、いい友達だ。少なくとも俺はそう思って接している。だからこそ言わせて貰うけど、どうでもいいんだよ、彼女ができたとか、振られたとか。東京来てからのお前しか知らないけど、まず何をしに東京に来たんだ?」

 細田は周囲に置かれている数々の映画を見て、村上の反論を受け付ける間も与えず続けた。

「映画だろ、映画!映画が撮りたくて東京に出て来たんじゃないのか?『バック・トゥ・ザ・フューチャー』より面白い映画が作りたい、そう語ってたよな?彼女を作るために女とやるためにここにいる訳じゃないだろ? だから、今お前が落ち込んでいる、いや、落ち込んでいるフリをしているのはまなちゃんのことじゃあない。台本が進まないことに対しての落ち込みだ。逃げに使うなよ、女を。」

 細田は言いたい事を言い切り、渡していたビデオを太田から受け取ると、いつもの穏やかな雰囲気へと戻った。

 呆気に取られた二人は呆然と立ち尽くしている。

 我に返り「いや…」といつもの軽口で言い返そうとする村上だったが、細田に言われた事全てが図星だった為、その口からはそれ以上は何も出てこなかった。

 太田は村上の肩を軽く叩き、何も言わず微笑みと共に頷くと、細田と共に店の奥へと消えていく。

 多くの映画たちに囲まれ、村上は一人その場に立ち尽くした。

第五章 「ラストマン・スタンディング」

 村上は夕暮れの公園で一人肩を落とし、ブランコに乗りながら佇んでいる。

 頭の中では先ほどレンタルビデオ店で細田に言われた事がぐるぐると頭の中を駆け巡っている。

 どこを見つめているのか分からない視線で、目の前の情景を見つめていた。

 砂場では男の子が一人、一心不乱に目を輝かせながら、砂で城の様なものを作っている。

「なんだよ、それぇ」その周りで遊んでいた子供たちの一人が、男が砂遊びなどをしていることが気に食わなかったのか、馬鹿にしたような目つきで子供の元へやってくると、唐突に砂の城を足で踏みつぶし、仲間達の元へと戻っていった。

「あっ…」自身の状況に落ち込んでいた村上だが、その状況に思わず声を出し、腰を上げる。

 時間をかけ作ったものが壊され、泣きそうになりそうになる男の子だが、泣くのをぐっと堪え、また一から城を作り始めていく。

 しばらくすると、周りの子供たちはその懸命な姿に動かされたのか、一人、一人と、男の子の手伝いに参加していった。

 最後には城を壊した本人も罰が悪そうに、仲間に呼ばれ渋々と城作りへと加わっていく。男の子を中心に皆笑顔で城を作っていく。

「あれ…」気がつくと、その様子を見つめていた村上の目からは自然と涙が溢れ出て来ていた。

「そうか…そうだよな」何かを納得した様子で村上は顔をあげ、携帯を取り出し、番号をおす。

 携帯から「もしもし?」と女性の声が聞こえた。

「もしもし、葵?ちょっと話いい?」

 いつもの喫茶店のいつもの席に落ち着いた様子で村上は、タバコを吹かす。ただ、その向かいの席にはいつもの親友の佐藤の姿は無く、元カノの葵がいる。

 マスターが葵の前にアイスティーを置き、村上にはホットコーヒーを差し出した。いつもなら「サンキュー、マスター」の気軽な一言があるはずだが、村上からは何も発せられない。マスターは二人を一瞥すると店の奥へと去っていく。

 重い沈黙が流れる中、村上の背後の席には村上を背合わせするように佐藤の姿があった、何が起きているのか分からず、挙動不審な表情が隠せない。佐藤が前を見ると、更にその挙動不審さに拍車がかかる。佐藤の目の前には村上の今の彼女である、まなが冷たい視線を佐藤の背後の村上に向けて投げかけていた。

 村上からの電話を佐藤が受け取ったのは昨夜の事だった。「葵と別れるから、立ち会ってくれ」聞いたことの無い真剣なトーンで言われ、つい引き受けてしまったが、まなまで呼んでいることは知らなかった。しかし、もう言葉から逃れる術はなく、佐藤は狼狽えるしかなかった。

「別れてくれ」村上が葵に切り出した。

「え?今日呼んだ理由ってそんなことだったの?どうしたの突然。いいじゃない。何か都合が悪いこと、バレたりしたのかな?今の彼女に?」
「あ、いや、そうだけど、そうじゃない」
「じゃ、なんで?それに別れるも何も、もう別れてるし」
「いや、そうなんだが」
「今は身体だけの関係でしょ。セックスして気持ち良くなってるだけでしょ?何が悪いの?」

「蛇に睨まれた蛙とはこのことか」まなの向かいに座る佐藤の頭の中にはそれしか浮かんでこなかった。背後の会話を聞き、鬼の形相をしているまなの表情を見て、一人、滝のような汗を流している。

「違うんだ。そうじゃない。確かに気持ちいい、身体の相性がいいかもしれない。ただそれだけだ。現在の俺に必要なのはそんなことじゃなかったんだ」

 佐藤は「ごほん!」と下手な咳払いをして「頼むから、もうこれ以上話さないでくれ」と強く願う。

 葵は咳払いを気にも留めず「何よ、そんなに気持ちが大事だっていうの?」と村上に迫った。

「違うんだ。そうじゃない」

 葵、まな、そして佐藤は村上の不可解な返答に首を傾げた。

「君への気持ちは本当だ。葵と浮気した事は悪かったとしか言いようがない。ただ気持ちは君にある。それは神に誓って本当だ。ただ、いまはそれ以上に、映画なんだ。葵への時間も、君への時間もいまの俺には無いし、時間をかけたいのは映画なんだ。それがやっと分かったんだ。だから、俺と別れてくれ」

 まなはしばし呆然と村上を見つめた後、深い溜息をつくと、笑みを浮かべた。向かいに座り、その笑みを見た佐藤は、これほど恐ろしく冷たい笑みを人生の中で見たことは無かった。

「あなたが何に時間をかけたいのかはあなたの自由。それで別れたいっていうのも、もちろん自由。だけどね、裏切った事は全く別の話。それを正当な理由にしないで」と言い終わるや否や、テーブルの上のグラスを手に取り、勢い良く村上の顔めがけ水をかけた。

 言葉を失う村上の肩を葵が背後から叩く。水浸しの村上が背後を向くと、葵からも勢い良くグラスの水を浴びせられる。

 葵も明らかな作り笑いをして「ほんと最低ね。身体だけならいいって思ったけど、自分勝手なだけじゃない。私にも彼女にも失礼だよ、それ」と言い放ち、息を合わせ、70年代のスパゲッティウエスタンの主人公かのように、颯爽とまなと葵が店を出ていく。

 店内には水浸しで肩を落としている村上と、何を発して良いのか分からず戸惑う佐藤が残された。

「いや、なんだ、その、ほら、あれだ、昔のドラマみたいだな、水かけらるのってさ」

「なんだそれ?」と自身の言葉に佐藤はつっこんだ。
「…ああ、安いドラマだったな」と村上が言うと、無性に可笑しさが二人同時に込み上がっていき、大笑いをする二人。

 そこへ足音が背後から近づいてくる、笑うのを止め村上と佐藤が振り向くと、そこにはマスターがタオルを持って立っている。

「いいんだよ、それで。男はさ。あるんだ、そいいう時が。お前は今やっとスタートに立てたんだ」と伝え、村上にタオルを手渡し、また奥へと去っていく。

 二人は無言でマスターの少し寂しそうな後ろ姿を見つめた。窓の外には季節にはまだ早い雪がちらついてきた。

 春の日差しが喫茶店の窓から差し込み、その光がテーブルの上のアイスコーヒーの氷を溶かし「カラン」と小さな音が鳴る。

 村上が、灰皿においた吸いかけの煙草の火が消えかけるのにも気づかず、机の上の原稿に向かって悩みながら必死にペンを走らせている。

 入り口のドアベルが鳴り「マスター、こんちは。アイスコーヒーね」と軽い調子で佐藤が入ってきた。

 いつもの様に佐藤は村上が座るテーブルに向かい合って座るが、村上はそれに気づかない程集中して書いている。

 佐藤が煙草に火をつけ「どう?終わりそうなの?」と聞いた。

 村上は佐藤の問いには答えず、書きながらぶつくさと小声で独り言を言いながら、時間をかけ原稿を読み返し「…よし」と小さく言った。そこで、ようやく佐藤に気づき「ああ、来てたのか」と声をかけた。

「きてたさ。で、終わったの?例の脚本」
「ああ、まだ見直すところはもちろんあるが、たった今できた」
「そか、よかったじゃないさ。思ったよりも早くできて」
「早くなんかないよ。シルベスター・スタローンは『ロッキー』をたった三日で書き上げたんだ。それに比べたら」
「そこ比べる?比べるところじゃないさ。とにかく、おめでとうでいいっしょ?」
「ああ、まだ書いただけだけどな」
「村上にとってはそれが大事なことだったんでしょ?まなちゃんも葵ちゃんも振ってまで、いや振られたのか。まぁ、恋愛を捨ててまでやりたかったんだからいいじゃないさ」
「…ああ、そうだな」
「もう、吹っ切れたでしょ?」

 村上は無言で答えない。

 佐藤が呆れた様子で「え?まだどっちかに気持ち残っているのさ?」と村上に問う。

「…いや、それはない。今は映画に集中するって言っただろ?映画を作るために頑張っているのに、他に時間を割いている場合じゃあない。大変なんだ、これから、もしこの脚本が通ったとしても、キャスティング、スタッフ集め、ロケハン、やらなきゃいけない事は鬼の様にあるんだ。だから、今はどっちに気持ちが残っているとかそいういうことじゃあない」
「はいはい。そうだね、でも?」
「でもも何もない」
「ほんとに?」

 村上は気持ちを落ち着けるかの様に、煙草に火をつけ、煙を吐く。

「いや、気持ちがどうのこうのでなくだな。つまり、その、これは」
「なにさ?」
「この気持ちはだな、だから、そう、生理現象。そう生理現象だから、どうしようもない。人間として生きる上の本能だろ。以前、鮫の話をしただろ?鮫にしろ、どの動物にしろ、不思議なことに親に教えてもらう訳でもなく、自然と覚える。これは本能なんだ。どうすることもできやしない」
「だから、つまり?」
「鯔のつまりだ、やりたいもんはやりたい。かな?」
「だと思ったさ」と佐藤はニヤけながら言った。

「なんだよ、その見透かしたような笑みは。だけどな、それすらをコントロールして、こうやって今頑張っているんだ。それどころじゃあないんだよ。わかるだろ?映画を頑張る時なんだよ。恋愛に、エロにうつつを抜かしている場合じゃあないんだ」
「ま、そうだよな。そっか。じゃ、今夜合コンの誘いあるんだけど、村上行かないなら他の人誘いに行くさ」

「行く」村上は間髪入れずに答えた。

 窓からの春の風に飛ばされそうになる原稿の一枚を村上が咄嗟に抑える。
くしゃくしゃになった原稿には、薄く黒ずんだ消しゴム跡の上に「シャークス・ラブ」の文字が書かれていた。

おわり

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やじま りこ | 小説
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