揺動
ふと名前を呼ばれて、自分がいる場所に気がつく。
白い、そう形容するしかない大きな廊下。
天井は高く、壁にも何も装飾は無い。ただ無感動に、廊下が前に続いている。
周りを見渡してみるが、誰もいない。呼ばれた声は何だったのだろう。
何かがあるような気がして、前に歩き出す。
***
どれくらい進んだろうか。
廊下の壁に絵が掛けられている。
幼児と少年の間のような年齢の男女の子供がどこかの部屋に二人並んで座っている。
写真であるようにも見えるし、絵画と言われればそう見えるような気もする。
女の子の姿を見た時に、軽く眩暈がした。
ふらつきを抑えてもう一度よく見れば、忘れたくても忘れられない彼女の面影がその女の子の顔にあった。
ということは、--隣に座る子供を見れば、それは果たして僕のようだった。
昔家族写真で見た顔がむすっとしたような照れたような表情で額に収まっている。
僕と彼女が並んでいるシチュエーションには僅かながら心当たりがある。
昔はお互いの家であてもなく色々と遊んでいたものだ。
彼女の顔を見るたびに何とも言えない疼きを胸に覚えるが、その原因は分からない。
***
ふと、絵から意識が逸れる。
いつの間にやら心まで子供時代に戻っていたような感覚になっている。
いつまでも見ていたいが、先に進めと僕の内なる意識が言っているような気がした。
意識的に目を逸らし、僕は歩き出す。
***
次の絵は、学生時代のようだった。
先ほどと同じように、僕と彼女が描かれている。
学生服を着た僕らは、自転車に跨っている。
後ろに彼女を乗せてペダルを漕ぐ僕はどこか誇らしげな表情を浮かべている。
自分のそんな顔を見るのは少し面映ゆい。
どんな状況だったろうか。どこかに出掛けようとしているように見える。
彼女の顔に目を向ける。
若さが眩しいその顔は、とても無邪気に笑っている。あの時見られなかった彼女の顔はこんな表情をしていたのか。
頭の横側が、少しだけ痛んだような気がした。
***
絵画の世界から感覚が戻る。
ただ立っていたはずなのに、今この瞬間に絵の中から抜け出してきたような、この時代の僕のまま今ここに立っているような感覚になる。
人生を追憶したような充足感と共に、得体の知れないざわめきを感じる。
僕は、少しだけ歩調を早めて再び歩き出す。
***
すっかりと大人になった男女が、画面の中で幸せそうな顔を揃ってこちらに向けている。
他愛のないスナップショットのようで、それは紛れもなく僕と彼女の顔だった。
記憶を何とか引き出す。これはいつのことだったろう。
さっきまで感じていた疼痛は、また少しだけ強くなっている。
それに負けないように僕は記憶の海を泳ぐ。
確かに僕はこのシチュエーションを覚えている。
だが、思い出すことに酷く労力がかかる。
幸せな思い出だったはずだ。何回も何回もそれを思い返していたことを覚えている。
しかし、肝心なその場面の記憶は鮮度を伴わない。
そもそも何故、何回もこの場面を思い返していたのだろう。
***
諦めてしまったのか、思い出したのかさえわからないまま僕はまた絵画の中から戻っていた。
何かがおかしい。僕の感覚が警鐘を鳴らしている。
進んできた後ろの方を向くのが少し怖くて、僕は廊下の先へ足を向ける。
***
僕一人だけが、暗い部屋に座っている。
窓の外には月明かりが見えるが、室内のディテールは容易に見て取れないほど暗く、塗りつぶされている。
この絵の僕はどこに座って何をしているのだろう。
その風景には見覚えがない。僕の人生にこんな場面はなかったはずだ。
そうして記憶を探ろうとするが、頭がどうにも上手く動かない。
胸のざわめきは先ほどよりもその厚みを増している。ノスタルジーを伴う鈍い痛みは、僕に何を伝えようとしているのだろうか。
もう一度絵を見て、暗さの中にあるその要素を見定める。
天井の蛍光灯、粗末なパイプ椅子、一部分だけが見える白く清潔で、どこか無機質な印象を与える、誰もいないベッド。
この風景はまるでーー、そう考えた瞬間、
***
意識が戻った。
気が付けば、呼吸が荒くなっている。
肩で息をしながら顔を上げて絵を見ようとするが、身体が言うことを聞かない。
身体的にではなく、もっと別の理由がこの身体に宿っているようだ。
違和感だけでなく、頭痛も酷くなっている。
どういうことだろうか。何故全く身に覚えのないこんな風景を見せられなければならないのだろう。
強い拒否感が沸き上がる。
結局僕は再び絵を見ることを諦め、先に進むことにした。
***
絵は、白く無機質な面で塗りつぶされている。
だが、不思議なことに僕にはそれが何を描いているものなのかがすぐにわかった。
そして、僕が何故ここにいるのかも。
絵には、先ほどまで"現実で"僕が見ていた風景が描かれていた。
病室の天井はもういい加減見飽きるほど白く、そして無機質だった。
そこからどうやってここに来たのかはわからない。
だが、この先に何があるのかを想像するのは容易だった。終わりとはこういうものなのだろうか、と醒めた感想までが頭に浮かぶ。
僕はたった一人で、この先に向かう。
そのことを受け入れた瞬間に、先ほどまでとは違う刺激が僕の頭に舞い降りた。
***
途端に、通り過ぎてきた今までの絵が記憶を伴って僕の頭に雪崩れ込んできた。
廊下にあった絵も、廊下になかった絵も、僕の人生のあらゆる場面が絵になって一つの流れを作り出す。
そうして僕は全てを思い出した。
彼女を思い出そうとすると現れる痛みの意味を。
幸せだった思い出を何度も思い返していた理由を。
僕が一人きりで座っていた訳を。
一人でいることに耐えられず、自分の記憶だけでなく、彼女の存在までを揺るがしていたのは僕だった。
気が付けば、僕は廊下の終点に立っていた。
目の前には扉がある。
僕は、扉の向こうに何が待っているのか、いや、誰がいるのかを知っている。
この扉は終わりではない。何故だかそういう確信がある。
もうその存在を二度と不確かなものにしてしまわないように。
僕は、扉を開けた。
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